悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (84)

第二夜〇仮面 その二十八

「入り口‥が開いた?‥‥‥‥‥」
確かにそれは入り口に見えないでもなかった。しかしそれは暗い水の中にあって、さらに深い漆黒の闇を湛えていた。

相変わらず水面に立つ仮面達の、風に揺れる柳の枝葉の様な手招きは続いていた。
もはや迷いは無かった。虚無感は「早く沼の水にこの身を投じてしまいたい」という衝動にすり替わり、私は敷石の上を擦るみたいに足を出し前進して行った。

カササ‥‥
前に出した左足が何かに触れて、微かな音を立てた。
それは‥‥握りつぶされて小さくなったお菓子の包み紙だった。
ああそうだった‥‥ここへ来る途中にポケットの中でずっと握りしめていたせいで、手がそのままの状態で動かなくなってしまっていたんだ。でも我に返った瞬間、嘘みたいに指が解(ほど)けたんだっけ‥‥‥。その時手から落ちたんだ。
おそらく実奈が私に拾わせようと捨て、私がちゃんと拾って来たそのお菓子の包み紙は、最初に沼に入ろうとした時と同じように、結果的に前進する私の足を止めさせた。
「‥‥‥‥‥実奈」私は、やはりそれを拾い上げた。「私のこと‥‥探してるかなぁ?‥‥‥‥‥」

もし実奈が‥・、沙織の言っていた様に私のことを本当に好きでいてくれて、私に拾わせる為だけにわざとゴミを捨て続けていたのだったら、私はそれをほとんど無意識に拾い続けて実奈の気持ちに答えて来た事になる。なんて不器用(ぶきっちょ)で不細工なコミュニケーションだったのだろう。実奈は無口で、ほとんど感情表現らしき事はしなかった。私は沙織に言われてからもずっと、そんな実奈の気持ちが信じられないでいた‥‥‥‥‥‥。
「こんな‥‥シンプルな物事の中にある意味も‥‥‥‥、結局私は見過ごして来たんだ‥‥‥」手の中にあるお菓子の包み紙が涙でぼやけていった。実奈も悲しいし‥‥、私もやはり悲しかった。頑張って来たつもりでも、仮面まで着けて懸命に立ち回っていたつもりでも、私は何も見えていなかったし見てもいなかったのだ‥‥‥‥‥‥‥。

私は‥‥‥、お菓子の包み紙を手の中からぽとりと下に落とした。もうポケットには仕舞わなかった。
『故きを捨つる心あらば 新しきもの来るやもしれず』
もしこの碑文に先の運命を託すのなら、沼に捨てるものは私の一部分ではなく、全部でなけれはならない。中途半端な修正など望まない。私そのものが刷新(さっしん)されるべきなのだ。
だから‥‥実奈と私を辛(かろ)うじて繋いでいたこのお菓子の包み紙も‥もうここに置いて行く。最後の未練も断ち切るのだ‥‥‥‥。

視線を沼に戻すと、黒い洞窟みたいな穴が前よりも大きくなっていた。と言うより、少しずつこちらに接近し、さらには水面に向かって浮上して来ていたのだ。まるで水に沈んでいる火山の火口の様なその縁(ふち)が、今ははっきりと見ることができる。やはり入り口だ。胎内くぐりの洞窟のよりもすっと大きい入り口だ。
水の揺らぎのせいだろうか、いつかSF映画で観た覚えのあるワームホール(宇宙で、時空をあっという間に超越できる通り道)を思い出していた。

私は敷石の端まで進んで立った。
やはり行くのだ。沼に身を投じてしまいたいと言う衝動は、たとえそれが自己を破壊する行為だとしても、もはや鎮まる事はない。
願わくば‥‥
沼からの誘いが悪しきものの仕業ではなく、良きものの導きでありますように‥‥‥
沼の中のこの大きな穴が、新しい私が生きる新しい世界への入り口でありますように‥‥‥‥
願わくば‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

ついに手招きに応えて私は、靴を履いたままの足を沼の水へと浸して行った。

次回へ続く 次回、第二夜完結です

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (83)

第二夜〇仮面 その二十七

誘われている‥‥‥‥‥‥
全部の事の成り行きが‥‥‥私を沼へと誘っている‥‥‥‥‥‥

誘っているものが何なのか、まったく正体は分からない。誘っている目的も不明だ。
だがそれは、私の記憶や思考を正確に捉えて‥‥‥、捉えた情報を巧みに再現した上で誘っている。右側には「みんなの仮面」の五人、左側には「私の仮面」の五人。沼に沈めた‥あるいは沈んだ仮面が拠りどころとなったのだろう。正確に再現された彼らは、今もゆらゆらと休む事なく手招きを続けていた。今思えば、沼に来るように仕向けられた例のスマホへの着信も、同じものの仕業であったのだろう‥‥‥

「いったい‥‥何ものなの?」私は沼を見渡していた。

沼は‥‥‥、沼自体が「ひるこ神社」の御神体であるらしい。そこに住むもの、それはもしかしたら「神?‥‥・」ではないのか。それとも‥‥‥、私をどうにかしようと企む、得体のしれない「魔物?‥‥・」なのか‥‥‥・
私は水中に鈍く光っていた二つの目の様なものの存在を思い出して、見かけた同じ場所を探してみた。だが、空から照らす満月の位置が変わって水中に射す光の角度も変わったせいか、再度発見する事はできなかった。

「神様だとしても、魔物だとしても‥‥、どちらだって同じかも知れない」私は拭い去れない虚無感の中、そんな事を口走っていた。私の中途半端な知識でも、日本の神は八百万(やおよろず)、様々な神様がいて、人に災厄をもたらす魔物の様な神もいたはずだ。骨董屋のおじいさんの説明の、ここ「ひるこ神社」の祭神(さいじん)であるはずの「蛭子神」も、所以あって一度は流され、後に新たな存在として戻って来た経緯があるらしいではないか‥。日本人というのはそう言う神々の「諸刃の剣みたいな不気味な力」を、自分たちの都合の良い解釈と都合の良い寄り添い方で祀り上げ、やがてその力を頼って手を合わせ祈願する様になったのだろう。私もそんな日本人の一人‥‥。

「故きを捨つる心あらば‥・新しきもの来るやもしれず‥‥‥」ふたたび、石に刻まれていた碑文を諳(そら)んじてみる。改めて気づいたが、どうやら「蛭子神」にまつわる意味合いから、再生への期待が表現されていたらしい。

「いっそ‥‥あの手招きの誘いに、乗ってみる?‥‥‥‥‥」私の心にはその時、中学生の頃によくあった突然の衝動が久々に鎌首(かまくび)をもたげていた。すべてを破壊してしまいたくなる衝動。その破壊の対象は自分自身も含まれる。着けていた仮面が全部剥がれ落ち、本来の自分の姿に戻ったせいかもしれない。強く、抑えがたい衝動だ。
沼にこの身ごと投じて、新しい自分になれるのならば、それは極めて手っ取り早い気がする。この地に来ていろんなものを失って、どうせこのままではもう何処にも帰るつもりはないのだ。たとえ命を失う事になっても、それはそれで良い。後悔などしない。
「‥それに‥‥‥もしかしたら‥‥‥‥‥‥」馬鹿みたいな事も考える。「この沼が、私にとっての異世界への入り口かも知れない‥‥‥」
しかし、まったく馬鹿げているとも思えない。沼からの手招きを見続けているとなぜか‥・そんな気がしてくる。
ワタルが獣神界へ迷い込んだみたいに、私もまったく新しい世界で新しい人と出会い、新しい関係を築いて新しい生き方を見つけ出し、そして成長していきたい。そこにはきっと本物の友情、本物の信頼、本物の生きる目的があるのだ‥‥‥‥‥‥‥‥

「ああ‥‥」私は呻き声を漏らして立ち上がった。
と‥その瞬間、前方の沼の水の中、確か二つの目の様なものが光っていたそのちょうど下辺りに、洞窟の入り口の様な真っ黒い影が口を開け、拡がっていくのが見えた。

次回へ続く