悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (263)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十八

ぼくは、この遠足に来られて嬉しかった。‥‥嬉しかったんだ。
自分が、いろんな事から解放される気がした。遠足に来てる間だけでも、のんびり羽を伸ばせるんだと思った。

ソラが死んでからというもの、その余りにも重たい現実に押しつぶされそうな毎日を送って来た。
幾度、何もかもをやり直せたらと思ったか、知れなかった。
この遠足は、そんな自分を、遠足に来ている間だけでも解放してくれたのだ。

きっと‥‥ 生前のソラと‥ベッドの横で交わした冗談めかした約束が、叶(かな)えられたに違いない。
ぼくと妻のセナと、小学校へ上がる前の幼いソラと、そして気の知れた周りの大人達とみんなで、小学校の同級生として、遠足に行くという約束‥‥‥‥
奇跡が起きて、その約束が叶(かな)えられたのだ。だから、ツジウラ ソノは ソラ なのだ。ツジウラ ソノは、ソラでなくてはならないのだ。
セナは半信半疑のようだし、ぼくも、確かめる必要があると‥話を合わせて上辺は装っているが、本当はすでに固く信じている。なぜなら、遠足に来たおかげで解放されたか、あるいは徐々に解放されつつあるぼくの心が、ツジウラ ソノが ソラである ことを強く語りかけて来るからだ‥‥‥‥‥‥

ぼくはこの先の行動が、解放されてきた心が指し示す方向へと、自(おの)ずと導かれて行くであろうことを予感している。


「今いるこの場所が、本当の巨大迷路廃墟ではなくて‥‥、たとえ『ヒトデナシ』が用意した罠が待ち構える空間だとしても、ぼく達は前に進むしかないんだと‥‥思う」
ぼくは、セナの目線を避けるように辺りを見回しながら、ゆっくりと言った。
「ぼく達はもう、飛び込んでしまったんだよ‥‥‥」
「‥‥‥そう‥ね」 セナは、辛(かろ)うじてといった感じで返事を寄越した。

「行きましょうか‥」
「ああ‥」
セナは手を繋ごうと、右手をぼくに差し出した。ぼくも自分の左手を出して、彼女の右手に合わせ、受け止めた。

ぎゅうっ‥ッ
受け止めたセナの手に、思わぬ力が込められた。ぼくの手を力一杯握ったのだ。
「えっ?」 ぼくは驚いて咄嗟(とっさ)に顔を上げ、セナの顔を直視した。直視してしまった。
それは、彼女の仕掛けたちょっとした罠だったのかも知れなかった。
ぼくとセナの、目と目が合った。彼女はそれ以上ない、真剣な眼差しをしていた。

「ヒカリさん!正直に言って! 私に何か、隠していることはない?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 ぼくは、黙り込んだ。黙り込んだままでいた。
「だったら質問を変えるわ! ヒカリさん! 私が芝生広場に着いてから見た‥夢の話は覚えてる?」
「‥‥‥‥‥ あぁ」 ぼくは、消え入りそうな声で言った。

セナは容赦なく、続けた。
「車内の床やシートが血まみれになった送迎バス。その運転手が大人のヒカリさんだったことに、今は何か心当たりが‥ ある?」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (162)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十七

先に入って行ったであろう風太郎先生やツジウラ ソノ、さらに葉子先生や他のみんなの後を追って‥この巨大迷路廃墟に足を踏み入れてすぐのことだった。ぼくとセナは確かに、奇妙な空間に迷い込んでいた。
迷路の仕切り壁がどこにあるのかも確認できない、先の見渡せない暗闇の空間だった。ただ‥、闇の奥から流れて来た読経が、通夜の最中らしい会場がこの先のどこかにあることを教えている‥ようだった。
その空間がいつの間にか消え失せ、仕切り壁にあちこち突き当たりながら迷路を歩けるようになった時、空間に迷い込んだこと自体が『暗闇の中の一時(いっとき)の幻覚』であったのだろうと思ってしまい、忘れかけていた‥‥‥‥‥


「 ‥‥確かに」 セナの問いかけに、ぼくはその一言だけを返した。
確かに、今彷徨(さまよ)っている迷路は、外から眺めていた廃墟の中味とは違う、『別の空間』なのかも知れない。
この遠足への『知らず知らずのうちの参加』を自覚してから、自分の身体が大人ではなく小学二年生のそれであって、背丈の違いから来る視界の低さや、歩幅の短さ、体力の違いを思い知らされていた。迷路の中を歩き始めてからも、空間の広さや距離感がしっかり把握しきれていない自分を感じていた。
「確かに、そんな気がする。どこがどう違っているかは、取り立てて言えないけど‥‥‥」
「だったら私たち、今どんな場所にいて、どこに向かってるんだろ?‥‥ このまま進んで、かまわないのかしら?」 セナがぼくに、これ以上にない真剣な口調で、再び問いかけてきた。
「すべては、『ヒトデナシ』の罠かも知れないね‥‥」 ぼくは軽口でも叩(たた)くみたいに言って退(の)けた。

ぼくは、この巨大迷路廃墟が、『ヒトデナシ』のアジトだと考えている。いや、間違いないことだ。そして『ヒトデナシ』は、人間(ひと)ではなく、底知れぬ能力で人間を翻弄(ほんろう)する『魔物』である。そんなことはもう、承知している。だからおそらく、これから先、どんな不測の事態に直面しても、然程(さほど)取り乱すことはないだろう‥‥‥‥‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」 ぼくはこの時、実は不思議な感覚に囚(とら)われていた。奇妙な自覚が、生まれつつ‥あった。

「ヒカリさん‥‥ どうか‥した?」 余程(よほど)ぼくが、普通でない表情をしていたのだろう。セナが心配げに声をかけて来た。

すべての出来事が『ヒトデナシ』が仕掛けた罠だったとしても、それを承知でぼくは、飛び込んでいくのだろう。
なぜならぼくは最初から、何もかもに薄々感づいていて‥‥、その経過と結末までもを、すでに頭のどこかに描いていた‥‥‥気がするのだ。

次回へ続く