悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (151)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十六

幼い頃から事あるごとに年寄りたちの口に上(のぼ)る、『ヒトデナシ』の所業と『腹裂き山』の俗称‥‥。ごく近隣の地域で起きたらしい未解決の事件と、捕らえられていない犯人の影に怯(おび)えながら幼少期を過ごしたであろう教頭先生は、大きくなって探した当時のハルサキ山で起きた事件の記録が一切見当たらない事を知って、どんな気持ちになっただろう?
年寄りたちにすっかり騙されていた‥とは考えなかっただろうか?

あくまでもぼくの想像ではあるが、教頭先生は考えなかったと思う。教頭先生が謎の人物に襲われた時に「ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!」と咄嗟(とっさ)に叫んだのは、事件がまったくの出鱈目だったと割り切れずに、半信半疑で今の今までずっとその幻影みたいなものを引きずっていたせいに違いない‥‥‥‥‥


葉子先生の話はそこまでだった。彼女は疲れ果てた様に目を閉じて、すっかり黙り込んでしまった。背中の傷の痛みが酷いのかも知れない。
ぼくはモリオをはじめ、フタハやミドリ、ツジウラ ソノに目配せして、教頭先生が『ヒトデナシ』に襲われてから、他のみんながどうなったのかを聞くことにした。

彼らの話したおおよその経緯はこうだ。
教頭先生の例の叫び声を発端に、みんなが色めき立ったらしい。しばらくの間、一体何が起きたのか、さらに何が起きようとしているのか、まるで分らなかったのだ。駐車場やその近くにいた者は、トイレの建物の向こう側で尻餅をついて怯えている教頭先生と、彼に向かって刃物らしきものを振りかざす『陰の様な人物』を目撃する。ずっと駐車場にいた葉子先生しかり、駐車場と芝生広場の境目の縁石に座り込んでいたモリオとツジウラ ソノしかりだ。「すぐに、教頭先生の体から血が噴き出すのが見えた」とモリオは言う。ツジウラ ソノは息を吞んだ。距離的には一番近くでその光景を目にしていたのだ。やはり全てを見ていた葉子先生は二人に、「逃げて!逃げなさい!」と叫んだ。
勿論二人は逃げた。後先を考えず、芝生広場に向かって。

芝生広場の、駐車場にすぐ近い場所には、タスクと『捕まえた虫コレクション』を比べっこしている風太郎先生がいて、男子を中心にたくさんの取り巻きもいた。彼らはすでに、駐車場のトイレの傍で何かが起きているのを知っていて、血相を変えこちらに向かって走ってくるモリオとツジウラ ソノに驚く。
ここでモリオが発した、この時点ではあくまでも憶測の域を出ないひと言が、一同のパニックを引き起こす。「きっ、教頭先生が殺された!みんな逃げろ!」
「いやあ!」少なからずいた女子の一人が思わず声を上げる。その声は、他の女子へと伝染するみたいに幾つもの悲鳴を誘発させた。「きゃああ!」「キャーアアァ!」「きゃあああああああー!」
そしてその場に居合わせていた、合唱部の一員であり普段から声のトーンもエネルギッシュなタキの「逃げろおおお!」という叫びが合図となって、風太郎先生のイベントに立ち会っていた全員が蜘蛛の子を散らす様に駐車場に背を向けて走り出した。
風太郎先生はと言うと、彼は逃げなかった。駐車場の方を注視したまま、生徒たちとは逆に、教頭先生が襲われている現場に向かって、小走りに駆け出して行ったらしい。

ぼくが茂みの中を彷徨う様に水崎先生の血の跡を辿っていた時、芝生広場の方から風に乗って歓声とも悲鳴ともつかない幾つかの交錯した叫び声が聞こえて来たのを思い出していた。あの時ぼくはそれを、てっきりタキやアラタたちが女子を誘って始めた『男女混合鬼ごっこ』の大はしゃぎの声だと思い込んでしまったのだ。

次回へ続く