悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (148)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十三

「ひと‥でなし?‥‥‥」

ぼくは今聞こえて来た言葉を聞こえたままに繰り返し、葉子先生を見た。
聞き間違いではない。葉子先生は確かに『人で無し』、『人で無しが出た』と言ったのだ。

「そう、ヒトデナシ‥」葉子先生の傍らにいたツジウラ ソノがその言葉を引き継ぐみたいにまた繰り返した。そしてひとり言の様に続けた。「教頭先生が襲われた時、そう叫んでた。ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!って叫び続けてた‥‥‥」
「教頭先生が?」ぼくは、今度はツジウラ ソノを見た。「教頭先生が本当に、そう叫んだのか?」
「そう、私も聞いた」「うん‥‥」やはり葉子先生の傍らにいて、彼女の手当を懸命(けんめい)に試みているフタハとミドリが言った。

ぼくは首を傾(かし)げた。教頭先生が本当にそう叫んでいたとしたら、ひどく滑稽(こっけい)な言葉だと思ったからだ。『人で無しが出た』なんて、突然何者かに襲われた人間が、はたして叫ぶだろうか?あまりにも陳腐(ちんぷ)で、その場に似つかわしくない表現ではあるまいか‥‥‥‥

「もっと詳しく、その時のことを聞かせてくれないか?」ぼくはそこにいる全員に言った。結局のところ、いったい何があったのか知りたかったのだ。

「たぶんあの時、教頭先生の一番近くにいたのは、私だったと思う」話し出したのはツジウラ ソノだった。
「私とモリオくんは、駐車場と芝生広場の境目の石の上に座ってて、水崎先生の車の傍で話し合っている教頭先生と葉子先生を見てた。しばらくして、教頭先生だけがご自分の携帯電話を構えてトイレの脇の方まで歩いて行って、隠れるようにして話し出したの。たぶん広場にいるみんなに聞かれたくなかったんだと思う。色んなところと連絡を取っている感じだったから。そうしたら‥いきなり、知らない人が駐車場の真ん中に立っていたのよ‥‥‥」
「いき‥なり?」妙な言い回しだと思って、ぼくは口を挟んだ。
「そう、いきなり。突然どこからか湧いて出て来たみたいに‥‥いつの間にか立ってたの。その‥知らない人が教頭先生に近づいて行って‥‥、教頭先生がその人に気づいて振り向いたと思ったら‥‥‥、教頭先生の携帯電話が宙に舞ってどこかに飛んでった‥‥」
「そこで教頭先生は、ものすごい悲鳴を上げたんだ。うわあああああ‥て」いつの間にかぼくの後ろにモリオが立っていて、いきなり話に加わった。ぼくは飛び上がって驚いてしまった。そんなぼくの肩に手を置き、モリオは続けた。
「みんなが教頭先生の方を見た。教頭先生は尻もちをついたみたいに駐車場の脇に座り込んでいて、怯えた顔でそいつを見上げてた‥‥。その時だよ、『ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!』て教頭先生が叫んだのは」
「‥‥‥‥‥‥」ぼくはやっぱり首を傾げた。普通に使われている表現と違って、教頭先生が叫んだ『ヒトデナシ』はまるで、そんな名前のついた『化けもの』か『妖怪』がいて、そんな特別な存在を呼んでいる時の感覚に似ている‥‥‥‥‥‥

「それで‥‥その『ヒトデナシ』は、どんなヤツだったんだ?」ぼくは少しだけ冗談めかして、モリオに質問した。
「‥‥‥‥それが‥変なんだ。よく分からない‥んだ」返って来たのは歯切れの悪い言葉だった。
見るとミドリもフタハと顔を見合わせ、頻(しき)りに首をひねっている。ツジウラ ソノも言葉を探しているのか、黙り込んでいた。
「みんな、どうしたんだ?覚えてないのかよ‥‥‥‥‥」

沈黙がしばらく続いた後、ツジウラ ソノが口を開いた。
「体がすごく大きい‥‥おとなの男の人だった。でも、どんな顔してるとか、どんな服着てるとか、細かいところを見ようとすると、暗い陰の中をのぞいてるみたいになって‥‥何もかもが境目をなくしたみたいにはっきりしないの。私の感じたイメージを‥‥感じたまま‥‥正直に言ったなら、例えば‥‥」
「例えば?」ぼくは思わず相槌(あいづち)を打ってしまった。
「例えば‥‥パレットに黒い絵の具を多めに出して、その後、茶色と緑の絵の具を出して‥‥そう、青も少し加えて、ぐるぐるっと荒っぽく筆でかき回して‥‥でも、まだまだ混ざりきってなくて‥‥。そんな、ただの黒ではない色をした『人の形(かたち)をしたもの』を見ているみたいな‥‥、感じかなあ‥‥‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (147)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十二

「ヒカリ‥くん?」
ぼくを呼ぶ声がした。

「ヒカリくん」
声は、クヌギの木に浮かんだ首の一つから発せられていた。
「怖い人は‥‥もういない?」別の首が問うた。

ぼくは呆気(あっけ)に取られて、その首たちを見つめ直した。

三つの首のうちの一つが、スッと、茂った木の葉の中に吸い込まれて消えた。
ガサガサッと音がして、太目の枝と幹に器用に手足を掛けながら、一人の女子がクヌギの木から降りて来た。
ツジウラ ソノだった。
ぼくは「ああ‥」と思わず呻(うめ)き声を上げ、安堵のため息をついていた。

ツジウラ ソノに続いて残りの首の二人が、すとん‥すとんと木から飛び降りて、地面に降り立った。フタハとミドリだった。
「みんな、無事だったのか!」ぼくは三人に声をかけた。
「無事なもんか‥」不満そうな男子の声が聞こえて、首を出さずに隠れていたであろう四人目が、慎重に幹にしがみつきながら降りて来た。モリオだった。
「モリオもいたか!」ぼくは嬉しくなって、モリオの方に歩み寄って行った。
「‥‥‥‥‥」やっとこさ地面に両足をつけたモリオだったが、近づいて行くぼくに目もくれず、そのまま黙って木の上を見上げていた。まだ、他にも誰か木の上にいる様だ。
モリオが、『手を差し伸べる』といった感じで両手を上方に伸ばした。するとモリオの見上げている辺りの枝葉の陰からゆっくりとズックを履いた大人の足が現れ、不器用そうに幹に足を掛けた。ツジウラ ソノやフタハとミドリもモリオの傍らに駆け寄り、降りて来ようとしている人物の体を支えるべく、みんな一緒に手を伸ばした。
木の幹伝いに下半身が現れ、徐々に上半身が見えてきて‥‥頭が現れた。みんなの助けを得て何とか地面に降り立つ事ができたのは、葉子先生その人だった。
葉子先生の生存を知った瞬間だったが、彼女の全身を目にしてぼくは息を吞んだ。葉子先生の身に着けていたパーカーとズボンは、間違いなく彼女自身の血で、真っ赤に染まっていたのだ。

「ヒカリ‥‥くん‥」葉子先生はすぐ傍まで来たぼくを見て、安心した様に微笑んだ。
しかし次の瞬間、いきなり力が抜けたみたいに頽(くずお)れた。
「先生!」「葉子先生!」「大丈夫?葉子先生!」全員が慌てて彼女の体を支え直した。ぼくも素早く両手を差し出してそこに加わった。
「楽にする‥わ‥‥」葉子先生はそう言って、ぼくたちの補助を辞退し、クヌギの木の根元の叢(くさむら)にうつ伏せに横たわった。うつ伏せになってこちらを向けた彼女の背中には、服の上から切りつけられた幾つもの傷があって、今も新鮮な血を染み出させていた。
「何とか、血だけでも止めなきゃ!」フタハが泣きそうな声で言った。
ツジウラ ソノとミドリは、葉子先生からウエストポーチを拝借し、止血に必要なものを探し始めた。
しかし葉子先生の負っている傷は、簡単な応急処置で今を凌(しの)げる様なレベルのものでない事は明らかだった。

「い‥いったい、何があった?」ぼくは誰とは無しに問い質していた。「他のみんなはどこに行った?」
誰も答えなかった。モリオは途方に暮れた様子で座り込んでしまった。

「‥ヒト‥デナシ‥が‥‥‥出たのよ」
随分と間があって、答えらしき言葉が返って来た。その弱々しい声の主は、葉子先生だった。

次回へ続く