悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (156)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十一

林の中の道を歩いていた全員が足を止め、振り向き‥‥、怯えながら聞き耳を立てていた。
すでに後にして来た芝生広場から聞こえて来た悲鳴と泣き声は、かなり切羽詰まったものとして彼らの耳に響いた。

集団の最後尾、つまり芝生広場に一番近い道の途上にいた葉子先生が、みんなを制する様に声を掛けた。「あなたたちは構わず、このまま進みなさい。立ち止まらず少しでもこの場所から遠くへ、できるだけ遠くへ離れるの。いい?」
葉子先生の口調には有無を言わせぬものがあった。全員が引きつった表情でコクッと頷(うなず)いていた。
「さあ、行って!」その言葉を合図に、全員がふたたび動き始めた。『進む道の先』と『その場に残ろうとしている葉子先生の姿』に、交互に何度も目を向けて、明らかに戸惑いながら‥‥‥‥‥


「葉子先生は私たちに背を向けて、広場の方に走って行った。遠ざかって行く先生の服の背中のあちこちが切れてて、真っ赤な血が滲(にじ)んでた‥‥」フタハがその時のことを振り返る。「途中でフラッとよろけて膝をついた。私たまらなくなって、隣を歩いていたミドリに言ったの。あんな葉子先生を放っておけないって‥」
ミドリも「‥うん」と深く頷いて、結局フタハとミドリのふたりは葉子先生の手助けをしようと、戻ることを決断したのだそうだ。
もちろん葉子先生は、戻って来たフタハとミドリを本気で叱りつけたが、自分を助けたいと申し出ているふたりと、その場で押し問答している時間の余裕など無かった。結局三人連れ立って、急いで芝生広場に飛び出していった。

あァああァーァん!
泣き声がまだ聞こえていた。女の子の泣き声だが、誰のものかは特定できない。
「どこ?どこよ?」葉子先生は芝生広場を見渡し、どこから聞こえてくるかだけでも確かめようとした。
「先生、あっち!」「うん!あっちから聞こえてる!」フタハとミドリが同時に指を差す。そこは広場の南側、延々と芝の草原(くさはら)が続いているずっと先の方だった。しかし、人影らしきものは見当たらない。
「何も見えない‥」焦る葉子先生。『芝生広場』と言っても、平坦な原っぱがずっと広がっているわけではない。大体の場所が多かれ少なかれどちらかの方向に傾斜していて、小さな丘みたいな出っ張りもあれば、窪地(くぼち)の様にへこんだ所もあった。それらの起伏に身を伏せてしまえば、小学生の体である、完全に隠れて見えなくなるのも仕方がない。

あがッ・‥‥
聞こえていた泣き声が突然途切れた。
「何!どうしたの?何かされた?」葉子先生が悲痛な声で叫んだ。
「あっ!あそこ見て!」ミドリが異変に気づいた。
確かに今まで泣き声が聞こえていた方向の辺りだ。ぱっと煙の様に草原から舞い上がったものがある。幸いにしてそれは『血しぶき』ではなかったが、見る見るうちに拡散し、今度は収縮、風に吹かれたみたいに渦を巻いた。よくよく目を凝らして見ると、小さな点の集合体が飛び回っているのだと分かった。
「‥‥虫?」フタハがぼそりと言った。
集合体のおこぼれみたいな小さな点の二つ三つが、三人の立っている方に流れて来た。
「バッタ‥だ」葉子先生が気が抜けた様な口調で呟いた。確かにそれらは、草原には珍しくもないバッタだった。

うわあああァァー!
三人が、近づいて来たバッタに気を取られていると、さっきとはまったく別の広場南東の方向から、新たな叫び声が響いて来た。やはり姿は確認できなかったが、男の子の声だ。

かっ!かんべんして!かんべんして!かんべんしておくれ!
今にも泣き出しそうな懇願(こんがん)の叫びが、呪文の様に続いた。
そんな悲痛な声に矢も楯もたまらず、聞こえてくる方向に身を乗り出すミドリとフタハ。
「待って!」葉子先生がふたりの前に素早く手を広げ、彼女たちの動きを制した。

「先生!」ミドリとフタハは、なぜ止めるのかと言いたげに、葉子先生の顔を見た。
「ふたりとも落ち着いて。落ち着いてあの声を聞きなさい‥」
「?」「??‥」

「今時の子どもが‥『かんべんしておくれ』なんて言うかしら?」
葉子先生のその言葉に、ミドリとフタハはハッとして我に返った。

「私たち、もしかしたら『ヒトデナシ』に誘い出されてるのかも‥‥‥知れない」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (155)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十

「風太郎先生‥‥無事でいるといいんだけど‥‥‥」
風太郎先生の活躍を語り終えた葉子先生は、ポツリとそうつけ加えた。

その時ぼくは思った。
葉子先生は、そしておそらく他のみんなも、まだ知らないんだと。
確かここから、駐車場の方へ100メートルほど戻った、芝生広場が向こう側に少し傾斜し始めている場所だったはずだ。辺りの芝草が真っ赤に染まり、『かつて人であったもの』がそこかしこに、幾つかに分断されて散乱していた。つまりそれが、風太郎先生が『ヒトデナシ』と格闘した末に辿ってしまった悲惨な末路(まつろ)だった‥‥と言うことを‥‥‥‥‥


「どうしたんだよ?ヒカリ‥‥」
ぼくが『風太郎先生の死』を、葉子先生に告げるべきかどうか考え込んでいると、その様子を不審に感じてかモリオが声を掛けてきた。
「ん‥いや、何でもない‥」ぼくは誤魔化す。「それより‥‥、おまえたちと葉子先生は、どうして木に登る羽目になったんだ?」
「どこへ逃げたらいいか‥‥分からなくなってしまったのよ‥」答えたのはツジウラ ソノだった。


葉子先生が、逃げ惑っていた子供たちを引き連れて林の前まで辿り着いた時、すでに林の中に身を潜めていた数人の生徒が先生の名を呼びながら合流して来た。
「これで全員?」葉子先生はそこに集(つど)った十数名の一人一人の体に怪我が無いことを確認しながら、質問した。「他の子たちはどこに行ったか、誰か知らない?」
それぞれが顔を見合わせ、首を振った。
「‥‥みんな、ばらばらに逃げて行きました」「あっちに走って行った子もいたし、そっちに逃げてく子も見ました‥」と、芝生広場のあちこちを指差しながら、比較的冷静でいた二人が答えた。ミドリとフタハだった。彼女たちはこの時点から葉子先生と行動を共にすることになる。
葉子先生は、さっき『ヒトデナシ』の手にかかる寸前に何とか逃げ果(おお)せた草口ミワと高木セナの姿が、今この場にいないことに考えが及(およ)んだ。「あのふたり、どこへいったのかしら‥‥。他のみんなも、広場のどこかにちゃんと隠れてくれていると‥いいんだけれど‥‥‥‥」と、少し震える声で呟き、空を覆った雲に春の陽射しをすっかり遮られて輝きを失ってしまった芝生広場に、心配そうな目を向けた。
誰の姿も確認できない。しかし葉子先生の心配と不安を本当に掻き立てたのは、不気味な『ヒトデナシ』の姿が風太郎先生と一緒にどこかへ消え失せていて、やはり確認できないことだった。
ここにいて良いはずがない‥‥。草口ミワが、警察と救急への通報に成功していたとしても、ここでこのまま、その助けが来るのを待ってはいられない‥‥と、葉子先生は考えた。

「ここにいるみんなだけでも、林の中の道を使って今すぐに避難しましょう」葉子先生は決断した。
逆らう子など誰もいなかった。全員が黙って従った。
元々ほとんどが日陰だった林の中の道だが、空が曇ったせいでその暗さは陰鬱(いんうつ)なものに変化していた。子供たちは来た時とは違って、肩を寄せあう様に密集して、足早に歩き出した。葉子先生はそんな彼らの最後尾を、周囲への一切の油断を排除しながら、ピタリと離れずついて行った。

空気を真っ二つに裂く様な突然の悲鳴と、地べたを引き摺る様な泣き声が続けざまに聞こえてきたのは、一同が前に進むことだけに意識を集中し始めた矢先のことだった。
そしてそれは間違いなく、一同がすでに背を向け後にして来た、芝生広場から聞こえていた。

次回へ続く