悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (183)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十八

ソラは座ったまま、突然眠る様に意識を失ってしまったと言う。
ソラの様子がおかしい事に気づいた保育士が、「ソラちゃん? ソラちゃん、だいじょうぶ?」と声を掛けながら、軽く頬を叩いてみたが、何の反応も無い。それを数十分繰り返して、結局ソラに何の反応も見られなかったことと、「ちゃんと息をしてないかも知れない‥」と他の保育士が言い出したので、慌てて救急車が呼ばれた。

僕と妻が搬送先の病院に駆けつけ、ソラと対面した時には、ソラはすでに意識を取り戻していて、備え付けのベッドの上で半身を起こし、いつもと変わらない様子で「おなか すいた‥」と言った。
診て下さった先生は、「失神したりするのは、ほとんどが一過性の発作で、ご心配には及ばないでしょう」と言って、ただ念の為、このまま一日入院させて、一応『脳と心臓』を調べてみることを勧めた。
そうして後日、病院から受けた診断は、やはり何の問題も無いものだった。

しかし、僕と妻は、決して胸をなでおろしたりはしなかった。妻の見た『夢』があったからだ。
実際、ソラの同様の発作がそれから頻繁(ひんぱん)に起こるようになった。妻は休職し、ソラを外出させずに家に居させ、付きっ切りで見守ることにした。僕も、仕事が手に着かなくなった。
幾つか別の病院で、ソラの検査をしてもらったが、発作の原因を特定することはできなかった。ソラの体に、一体何が起こっているのか? 病名をはっきりとさせない限り、治療法も見いだせないでいた。
検査が空振りに終わる度(たび)、妻は思いつめた様に言った。「‥あの時、あの夢の中で私が、ソラの指に最後に絡んでいたあの赤い『あやとり紐』を、手早く上手に取ってさえいれば‥‥、きっとこんなことにはならなかったのよ‥‥‥」
「何を言い出すんだ。それは違う」そんな時、僕は妻を慰めるしかなかった。「君の夢はいつだって、これから起ころうとしている何かを、言い当てているんじゃないか。夢の中の君がどういう行動をとろうと、それはもう定められた運命だったんだよ‥‥」

何の進展もない不毛な月日が、あっと言う間に過ぎて行った。僕達はソラに、あらゆる検査を受けさせた。たとえそれが、的外れに思えるものでも。藁(わら)にも縋(すが)りたかったのだ。
ソラだけではなく、僕と妻の家族全員の遺伝子検査もした。遺伝子を解析することで、隠された糸口をどうにか見いだせないものかと‥期待したのだ‥‥‥‥‥‥

そして、詳細な分析結果が出るのを待っていた、ソラの最初の発作から九ヶ月と二十一日目。ソラは家のベッドの上で『赤いばら』の絵を描いていた時に意識を失い、失った意識が戻らないまま、運び込まれた病院で息を引き取った。
妻が絶望の極限にいて、病室のベッドでただ眠っているだけに見えるソラに追いすがって泣いていた時、僕はふらふらとその部屋を出て廊下を彷徨(さまよ)っていた。すると、病院の関係者が話しかけてきて、お定まりの悔やみの言葉の後、ソラの体を医学の将来の為に、研究対象として引き取らせてはもらえまいかと申し出た。
僕はその瞬間、途轍(とてつ)もなく大きくて収まり切れない何かを、無理矢理詰めこなれたみたいな頭で、こんなことを考えていた。

娘の体を差し出して解剖してもらい、病気の原因を特定できたら‥‥‥、ソラは生き返るだろうか?

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (182)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十七

その『夢』の中で、妻は絶叫していた。
娘が消え失せた宙に向かって何度も何度も手を伸ばし、前のめりになって藻掻(もが)き、そして泣き喚(わめ)いた。

いつの間にか『夢』は終わっていたのだろうが、妻はやはり泣き喚いていた。夢と現実の境界を越えて、まるでその境目(さかいめ)が無かったかの様に、ずっとずっと泣き続けていたのだ。
なぜなら妻にとって『昼間の夢』は、ほとんどがやがて現実となってしまう、『予知の夢』だったのだから、妻はそのことを痛いほど身に染みて、承知していたのだから‥‥‥‥


妻が語り終えた『夢』の内容は、僕にとっても衝撃的だった。動悸(どうき)が激しくなっているのを、はっきりと自覚していた。
恐らく‥‥、それほど遠くない未来に、娘のソラの身に、予想だにしていない何かが、起こるのだ。

「‥‥ソラは‥」
僕は、泣き疲れてほとんど放心状態でカーペットの上に座り込んでいる妻に質問した。「夢の中であやとりをしていたソラは、今とは違う‥、少しは成長しているソラだったかい?」
「‥‥‥‥‥‥‥」妻は俯(うつむ)きぎみに一点を見つめ、しばらくの間黙り込んでいたが、やがて首を小さく横に振って言った。「今と変わらない‥‥、同(おんな)じソラだった‥‥‥」
その答えを聞いて、今度は僕が黙った。妻の見た『夢の暗示』が現実のものとなるのは、『夢』によってまちまちではあったが、すぐに『これだ これだったのだ』と気づかされるものもあった。妻の見た『夢の中のソラ』が、今と変わらないソラだったのなら‥‥、現実のソラの身に何かが起こってしまうのは、『近い』のかも知れない‥‥‥‥‥

居間のローテーブルの脇、ソファーにも腰かけず、妻と僕の二人はカーペットの上に直(じか)に座り込んだまま、ただ黙っていた。ただ黙って、僕はあらゆる不吉な事態に、考えを巡らせていた。
夢の中、ソラが『赤いあやとり紐に包まれて消えていく』というのは、いったい何を意味しているのか?そしてそれはいつ、娘の身に起こるのか?『終わる』と言う事はもしかしたら本当に‥‥‥‥

どれくらいの時間が経過していたのかは分からない。突然、家に備えてある電話機が鳴った。
僕は思考を遮(さえぎ)られ、妻は瞬(まばた)きを二つして我に返った。
鳴り出した電話はどうしたわけか三回のコールで途切れ、時を経ずして今度は僕の携えているスマートフォンが鳴り出した。きっと同じ人物が掛けている。たぶん、最初家電(いえでん)に掛けたが、この時間には誰も出ないことを思い出し、すぐに僕のスマホに掛け直したのだ。我が家の事情を多少なりとも承知ている人物が、慌てて僕たちに何事かを伝えようとしている‥と、僕は直感的にそう思った。

果たしてその連絡は、やはりソラがお世話になっている保育所からのものだった。
ソラが何の前触れも無く突然意識を失い、病院に救急搬送されたと言うのだ。僕と妻は目を見張り、互いを見つめ合った。

それが始まりで‥‥、ソラの命が『終わる』まで10ヶ月も‥‥無かった。

次回へ続く