悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (259)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十四

ぼくは今ここに至るまで、『ヒトデナシ』の出現した場面には居合わせなかったし、遠目(とおめ)に『ヒトデナシ』の姿らしきものを目撃してさえもいない。
教頭先生がヒトデナシに襲われ、風太郎先生が他のみんなを護るために身を挺(てい)してヒトデナシと奮闘していた時、ぼくは芝生広場とその駐車場から離れていて、水崎先生の行方を突き止めるために彼女が残して行った血痕を辿って、草を搔き分けながら茂みの中を彷徨(さまよ)っていたわけだし、その後彷徨った末に行き着いた巨大迷路の廃墟でも、外壁に教頭先生の死体が吊るされるのを見て、それがヒトデナシによる仕業だと勝手に思い込んだだけで、外壁の向こう側にいた何者かの姿を実際に目で見て確認したわけではなかったのだ‥‥‥‥‥

「きみは芝生広場で‥、ヒトデナシを間近で見てるんだよね?」
「えっ ええ‥‥」
ぼくとセナは、前進を開始していた。巨大迷路廃墟の中を入口と反対の中心部に向かって、二人しっかり手を繋いで歩き出していた。
目的は『ヒトデナシ』を捜し出し、ヤツをどうにか退けて、ツジウラ ソノやみんなをこのハルサキ山から解放すること。そう再確認して歩を進めている。

「ヒトデナシは‥、ぼくの裁量(さいりょう)で何とか出来そうな‥相手かい?」ぼくは決意を崩(くず)さぬ様に前方を見据(みす)えたまま、セナに問いかける。
セナはすぐに困惑した表情を浮かべ、ぼくの視界とは違うどこか遠くを見遣(みや)った。
「‥‥確かに、間近で見たはずなんだけど‥‥ 気が動転してたのかな?よく覚えてないのよ‥‥‥」セナは言葉を濁(にご)した。
「やっぱりそうか‥」
「え?」
「フタハもミドリも‥、モリオもそうだった。みんな首を傾(かし)げるだけで、何も言えないんだ。本当に覚えてないのかも‥知れないな」
「‥‥‥ごめん」
「きみが謝ることじゃないさ。『ヒトデナシ』が、そういう『特別な存在』なのだろう‥」
「特別な‥存在?」
「ああ‥」ぼくは大人の動作で頷いた。そして少し間を置いてから、「‥‥ただ」とつけ加えていた。

ぼくは思い出したのだ。『ヒトデナシ』がどんなヤツだったか質問した時、いささか抽象的な表現ではあったが、懸命(けんめい)に答えてくれた子が一人いたことを‥‥‥‥
それは誰あろう、ツジウラ ソノだった。
彼女は『ヒトデナシ』のことを、確かこんな風に言ったのだ。

「体はすごく大きい‥‥おとなの男の人だった。でも、どんな顔してるとか、どんな服着てるとか、細かいところを見ようとすると、暗い陰の中を覗(のぞ)いているみたいになって‥‥何もかもが境目をなくしたみたいにはっきりしないの。私の感じたイメージを‥‥感じたまま‥‥正直に言ったなら、例えば‥‥例えばパレットに黒い絵の具を多めに出して、その後、茶色と緑の絵の具を出して‥‥そう、青も少し加えて、ぐるぐるっと荒っぽく筆でかき回して‥‥でも、まだまだ混ざりきってなくて‥‥。そんな、ただの黒ではない色をした『人の形(ひとのかたち)をしたもの』を見てるみたいな‥‥、感じかなあ‥‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (258)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十三

ぼくがセナに問いかけをした後‥‥、しばらくの間彼女は不思議そうに、ぼくの顔をまじまじと見つめていた。
そして、少し呆(あき)れた様な口調で、こう切り出した。

「どうして‥‥ ヒカリさんにそんなことが、分かるんですか?」
「え?」
「どうして、棺(ひつぎ)がずっと空(から)だったとか、葬儀を行おうと待っていたとかが、ヒカリさんに分かるんですか?」
「え??」

「そもそもここで、誰が、何のために、葬儀を行おうとしてるんでしょうか? そういう事を全部説明してください」
最後のセナの言葉は、強く念を押す感覚があった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
ぼくは、口を噤(つぐ)んでしまった。

しかしそれは、ぼくが質問に対する答えを持っていなかったからではない。
答えは、確かに持っていた。いや、持っていたと言うより、『存在していた』と言った方がいいだろう。
その時初めて気づいてしまった、極めて感覚的な認識なのだが‥‥、『頭の中の、答えを持っている場所』が、いつもの場所と、違っていたのだ。『その場所』は、確かに自分自身の一部なのだが、どこか余所余所(よそよそ)しさを漂わせている場所だった。そして、そこに気を寄せようとしようものなら忽(たちま)ち、例の頭痛が波の様に押し寄せて来る予感がした。

「私の知っているヒカリさんは‥‥」セナが重々しく口を開く。「小学生のときから利口で、賢明で、どんな時でも冷静でいられる人だったはずよ」
「‥‥‥ああ」 ぼくは彼女から目を逸らし、俯いてしまった。
「それがここ最近のあなたときたら、時々、奇妙なことを口走ったり、周りに何の説明もしないで勝手に先走ってる‥気がする」
「‥そ そうか」 確かにそうなのだろう。ぼくは弁解はしなかった。

「私たちが今、ここでこうしているのは、ここに連れてこられたツジウラさんを助けるため。他に助けられる人がいたら、一人でも多く助けるため。それが目的でしょ? ツジウラさんがソラかどうかは、その後で確かめればいいこと。違う?」

セナの言う通りだった。自分の頭の中の混沌(こんとん)にしても、やはりぼくはどうかしているのだ。
なぜだ?なぜ、こんなことに巻き込まれている?本当にこの遠足は、『ソラとの約束を果たすためのイベント』だったのか?‥‥‥‥‥‥


「こんな遠足‥‥、来るんじゃなかった

突然、ぼくの耳の奥で、ツジウラ ソノが泣きながら吐き捨てた一言が甦(よみがえ)った。
‥そうだ。遠足が台無しになってしまったのも、何もかもがあらぬ方向へと転じて行ったのも‥‥、ここハルサキ山に、魔物が出現したせいに他(ほか)ならない。
そうだ!『ハラサキ山のヒトデナシ』だ! ヤツをどうにか退けて、ツジウラ ソノやみんなを、このハルサキ山から解放することこそが、全てを差し置いての目的であったはずなのだ!‥‥‥‥‥‥‥

ぼくは、逸らしていた目をゆっくりと戻し、真正面からセナを見た。
「分かった。済まなかった‥」 ぼくは簡潔に謝った。
セナは少し驚いたみたいに目を丸くしてから、コクリと頷いた。

「ヒトデナシ‥を捜してみよう。ヤツは、この巨大迷路の廃墟をアジトに‥しているはず‥‥なんだ」
ぼくは立ち上がり、そう言った。

次回へ続く