悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (168)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十三

抑々(そもそも)‥‥、高木セナとタスクが、なぜ男子トイレの個室に二人して隠れる事となったのか?

「広場で草口さんが『謎の男(ヒトデナシ)』に襲われそうになって、風太郎先生が止めに入った時、君はその現場にいたよね。その後、助かった草口さんに連れられて君は、駐車場とは反対の方向へ逃げて行ったって聞いたけど‥‥」と、ぼくは高木セナに質問した。彼女は「その通りです」と言わんばかりにコクリと頷いて、今ここにこうしている理由を語り始めた。

高木セナが語った経緯はこうである。
草口ミワが、芝生の上に座り込んで動けなくなっていた高木セナの腕を掴んで立たせ、彼女を引き摺る様にしてその場を逃げ出した時、高木セナの目はなぜか、遠く駐車場を逃げて行くタスクの小柄な後ろ姿を捉えていた。
腕を引っ張られながら高木セナが尚も見ていると、タスクは、そのまま駐車場の端まで走って行き、境界に渡してある丸太を模したコンクリート製の柵を勢いよく乗り越えようとしたそうだ。しかし、体の小さなタスクは、柵を跨(また)いで跨ぎ終えようとした瞬間に片方の足を引っかけて、柵の外の向こう側に逆さまになって見事に落下していったではないか。
柵の向こう側は、なだらかと言えど小さな崖になっている。それを知っていた高木セナは驚いた。咄嗟(とっさ)に、大変だ!助けなきゃ!と思った。気がついたら草口ミワの手を振りほどき、駐車場目がけて走り出していた。

「わたし‥‥ いつも誰かに助けられてばかりで情けないなあ‥‥て、ずっと思ってた。だから、いつかは自分が誰かを助けてみたい、助けてあげよう、て考えてたの‥‥‥」
高木セナは真剣な眼差しでそう言った。

彼女が駐車場に到着し、柵から身を乗り出して崖の下を覗き込むと、タスクは草木の茂った2メートルほど下の斜面に仰向けの状態で引っかかっていた。体のあちこちに擦り傷は負っていたが、意識はあった。彼女は思わず「良かった‥‥」と声を漏らした。
芝生広場での騒ぎがまだ続いていることをちゃんと認識していた高木セナは、自らも柵を超え、草木に掴(つか)まりながらゆっくりと斜面を下ってタスクの傍まで行った。そして、騒ぎが収まるまで、しばらくそこで二人して身を潜(ひそ)めていたそうだ。
タスクが右足を痛めていることが分かったのはその後で、お互い助け合いながらどうにかこうにか斜面をよじ登り、今度はすぐ目の前にあったトイレの、どう言うわけか男子側の個室に、二人で入って隠れていたのだった‥‥‥‥


「広場は静かになった。怪しいヤツは、今はいないよ‥」ぼくはそう言って、個室から出て来た高木セナと、彼女の肩を借りて左足だけで立っているタスクを、取り敢えず葉子先生たちの所まで連れて行くことにした。
右足が使えないタスクを負ぶって連れて行こうとしたぼくは、自分の体が小学二年生のそれであることを思い出し、すぐに断念した。高木セナとともにタスクを両脇から支え、肩を貸してゆっくり歩かせた。芝生広場を横切る途中、風太郎先生の遺体が横たわっている例の場所は、当然迂回(うかい)した。
タスクを支えながら三人で歩いている間、高木セナがぼくの方を何度もチラチラと見て、様子を窺(うかが)っていることに気がついていた。彼女と目が合った時、「‥どうした?」と問いかけたら、大げさに首を振って目を逸らせた。
ははあ‥‥とぼくは頭の中で考えた。さてはまた、『夢』を見たんだな。それもぼくが登場する夢に違いない‥。高木セナは、その夢の内容について、ぼくに早く質問したくてしょうがないのだが、タスクがいるからそれが出来ないでいるのだ。

前に聞かされた『血まみれ送迎バスの運転手』の次は‥‥ いったいぼくのどんな姿を‥ 彼女は夢に見たんだろうか?‥‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (167)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十二

芝生広場駐車場の西側隅に設けられているトイレは、比較的新しくきれいな建物で、正面の入口を右側に入れば男性用、左側に入れば女性用と、中は二つに仕切られていた。
スマートフォンを手に入口の手前で立ち止まり、聞き耳を立てていたぼくは、着信音の『グノシエンヌ』のメロディーがどうやら右側男性用のスペース内で反響し続けていることを知った。

ディスプレーに表示されている『セナ』の文字通りに、高木セナが携帯しているスマホを呼び出していると考えていたぼくは、正直戸惑った。想像だにしない『不測の事態』が混在している可能性を考えた。呼び出しているスマホは、今は高木セナの手の中にないのかも知れない。誰か別の‥‥‥‥‥
ぼくは心の中で高木セナの身を案じ、無事でいてくれることを強く願わずにはいられなかった。
するとその時、手元のスマホで続いていたコールが自動音声のメッセージに切り替わり、明らかにそれに呼応して、男性用トイレ内に響いていた着信音が途切れた。

一歩‥ 二歩‥ 三歩‥‥  ぼくは息を殺し、男性用トイレ内に侵入した。
中は、ひんやりしていた。入ってすぐの所に鏡と洗面台があった。右の壁伝いにはどっしりとした小用の便器が二つ並んでいて、奥には個室が一つと鍵のかかった用具入れがあった。
人影は見当たらなかったが、個室のトビラがピタリと閉まっている。
ぼくは、しばらくの間、動かなかった。おそらく個室のトビラの向こう側に潜んでいるであろう何者かの気配を、何とか感じ取ろうとしていたのだ‥‥‥‥

ぼくは個室のトビラに視線を据えたまま、右手に持つスマホの上で親指だけを動かした。リダイヤルしたのだ。

僅かなタイムラグがあってその後(のち)、個室の中から十分(じゅうぶん)な音量で『グノシエンヌ』が流れ出し始めた。 そしてそれとほぼ同時に、ガタンと肘か何かが個室の壁を打ちつける音がして、さらに「またか!また始まった! 早く音消せってば、お前んだろ!」「だから、知らないってば!勝手にリュックの中に入ってただけで、こんなの私んのじゃないもの! 操作なんてできないよう!」と、精一杯声を殺そうとして、まったく殺しきれてない会話が聞こえて来た。

ぼくは、ほっと安心の吐息をついた。その声の主(ぬし)たちに心当たりがあったのだ。一人は当然 高木セナで、もう一人の方は タスクに違いなかった。
「二人とも‥、出て来いよ。ぼくだ、ヒカリだ‥‥」

キーイィー ー ー
個室のトビラがゆっくりと開いた。そして‥‥ 閉じられた便座のふたの上に座り込んで、全身傷だらけな上に痛そうに右足を両手で抱え込んでいるタスクと‥‥ 汗びっしょりで泣きそうな顔をして、今にも手にしているスマホを床に放り出してしまいそうな高木セナが‥‥‥ ぼくの方を見ていた。

次回へ続く