悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (171)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十六

厚い雲に覆われたままの灰色の空と、人影の消え失せた芝生広場‥‥‥‥
ぼくは高木セナと二人並んで、ただ黙って歩いていた。
歩を進めるぼくたちの靴底と、地面を覆っている芝草との摩擦音だけが、辺りに控えめに響いていた。

ぼくには色々と確かめたいことがあって、それを独りで行なうつもりでいたが、高木セナがついて来るのならそれでも良いと思った。彼女をパートナーとして行動することには慣れている。
ただ、彼女の身に危険が及ぶ事態だけは絶対に避けようと、心に誓っていた。
「今‥この場所で、一体何が起きていて‥‥、これから何が起ころうとしているのか、確かめる必要があると考えてるんだ‥‥‥」ぼくは前を向いたままそう言った。彼女もまた前を向いたまま、ただ小さく頷いた。

ぼくたちは芝生広場を北に向かって横切り、やがて駐車場に到着した。
さすがに駐車場まで来ると、高木セナは警戒心を露(あら)わにしたが、ぼくは迷わず歩き続け、駐車場の北側の端の、組み合わせた丸太を模してあるコンクリート製の柵(さく)の前で止まった。柵の向こうは緩やかに下りながら傾斜していて、そこに立てば、草木に覆われて眼下に広がっている辺り一帯を見渡すことができる。
ぼくは『確かめておきたい事』のひとつを実行すべく、背中のリュックを下ろし、中から『例の道具』を取り出した。
「あっ 何それ?」高木セナが興味深げに覗き込んできた。
「双眼鏡さ‥。風太郎先生がバードウォッチング用に持って来たものを貸してもらったんだ」
「へぇ‥‥‥」
幸い彼女は、今の風太郎先生の消息を質問してこなかった。ぼくは早速、ケースから出してレンズキャップを外した双眼鏡を両手で構え、その対物レンズを迷わず、やや西よりの彼方(かなた)に位置する『こんもりとした緑の小山』に向けた。すでに足を運んでこの目で確かめた、言わずと知れた巨大迷路の廃墟である。ここからは距離にして優に300メートルはあるが、双眼鏡を使えば、下手(へた)にリスクを冒さなくても十分に観察できると考えたのだ。

「何を‥‥見ているの?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
ぼくは、興味津々(きょうみしんしん)に体を寄せて話しかけてきた高木セナの問いに、答えなかった。否、答えられなかったのだ。
酷く動揺していた。双眼鏡を持つ手が小刻みに震えているのが分かった。
声に出さずに、ぼくは数えていた。一つ!‥二つ!‥三つ!‥四つ!‥‥‥‥‥

水崎先生と教頭先生、そして後ふたつの不明の遺体が、『赤い花』のごとく腹を裂かれて逆さまに吊るされていたのは、巨大迷路廃墟の西側の外壁(そとかべ)であった。そして、今ぼくが双眼鏡で見ていたのは、西側から北へ直角に回り込んだ『南側』の外壁。芝生広場に戻る時には何も無かったはずの南側の外壁が今に至って、複数の新たな『赤い花』で飾られていた。恐らく西側の壁をすでに埋め尽くし、溢(あふ)れて南側にまで到達したのだ。

ぼくが予見した通りの『不吉な連続性』が、着実に、進行していた‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (170)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十五 

「わたし‥‥ヒカリくんと‥‥‥ 結婚するの?」

高木セナの突然のその質問に、ぼくは虚を突かれた様に押し黙ってしまった。
ここで今、『そんなこと』を正直に答えるべきか否か、迷ったのだ。なぜならぼくはここでは小学二年生のはずで、理由は良く分からないが、そのクラスの一員として遠足に来ているからだ。
「‥‥‥いったい、どんな夢を‥‥見たんだい?」
ぼくは質問に答える前に、まず、彼女が見た夢の内容を知っておこうと思った。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
高木セナは答えなかった。それどころか、赤い顔をますます赤くして、居たたまれないといった具合にすっかり俯(うつむ)いてしまった。

そんな彼女の様子を前に、無理に聞き出すことはデリカシーに欠けると判断したをぼくは、背負っていたリュックを外した。そしてその中から、スマートフォンを取り出してみた。
「これと‥同じようなものを、君も持っていたはずだよね‥‥」ぼくはそのスマホを、高木セナに指し示した。
弾かれたみたいに顔を上げてしばらくそれを見ていた高木セナは、「あ‥‥うん‥」と返事をして背中の自分のリュックを外して、トイレの中で『グノシエンヌ』を奏でていたスマホを取り出した。「‥でもこれって、勝手にリュックに入ってて‥、わたしのでは‥ないの」
「いや‥」ぼくはゆっくりと首を振った。「それは確かに君のものだ。少し未来の君自身が持っている、少し未来の携帯電話なんだ」
高木セナは目を丸くした。

ぼくは手元のスマホを操作し、今日何度目かの発信をした。
発信した電波がどこかの中継基地局を経て、高木セナの持っているスマホに着信し、やはり今日何度目かの『グノシエンヌ』が流れ出した。
「そいつの、画面をちゃんと見てごらん」ぼくは彼女を促した。
「‥‥‥ヒ‥カリ?」彼女は、それに初めて気がついた様子で、タッチパネルに浮かび上がった発信者の名前を読み上げた。
「そう‥ぼくの名前。ぼくの電話番号にぼくの名前を登録したのは、君自身のはずだ」
高木セナの瞳が、輝き出した。
「君とぼくを結んで、今流れているメロディーで君の居所をぼくに教えてくれたこいつは、やっぱり君と同(おんな)じで、ぼくのリュックに知らないうちに入ってたんだ。なぜそんなことが起こったのか全然説明できないんだけど、きっとぼくたちが近い将来には『特別な絆』で結ばれているっていう‥‥証拠だとぼくは思う」

高木セナの質問に対しての、決してはっきりとした解答ではなかったが、彼女は納得した素振(そぶ)りを見せてくれた。ぼくを見つめる彼女の瞳の中に、奥行きの様なものが生まれていた。
「生きていれば自然に‥‥未来はやって来る」ぼくはそう締め括(くく)った。
そして来たるべき未来に存在している、ぼくたちのかけがえのない日々と‥‥ 突然舞い降りて来た深い悲しみと絶望を‥‥‥ 思った。

次回へ続く