悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (178)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十三

突然ぼくの頭の中に溢れ出した感情は、徐々に治(おさ)まっていった。
「ありが‥とう」 傍にいて、ぼくの手を取ってくれた高木セナに、感謝の言葉が自然にこぼれた。ぼくは‥ぼくの左手を包んでくれている彼女の両手に、さらにぼくの右手を重ねた‥‥‥‥

しばらくしてぼくは、その場からゆっくりと立ち上がった。もう一度、広場に戻ってみようと思ったのだ。「葉子先生の体に、掛けてあげられるものが何かないか、探してくるよ‥‥」
その場の重たい空気に居たたまれなかったのもあったが、せめて先生の痛々しい背中だけでも、適当なものを見つけて来て覆ってあげたかったのだ。
広場の方に歩き出してすぐ、少し離れた草の上に座り込んでいるモリオと目が合ったが、彼はもう何も言わなかった。

最近時々ある事だったが‥‥、感情の高ぶりが静まっていった後、決まって頭の中のどこか奥の方が麻痺(まひ)してしまった感覚になった。今も、ぼくはそんな状態になった頭をぼんやり感じつつ、ただ黙って歩いていた。すると、ぼくの背後から、小走りの足運びで草を踏む音が聞こえて来た。どうやら誰かがぼくを追いかけて来たらしい。
また『高木セナ』だと思った。彼女がまた、ぼくと行動を共にしようと、追いかけて来たに違いないと思った。だから、あえて振り向かなかった。高木セナがぼくに追いついて、ぼくの横に並ぶのを待つことにした。
サカ ササササー ー ー
予想通り、ぼくの横に姿を現したのは、高木セナだった。が?しかし、ここからは予想に反して、彼女はぼくの横に並ぼうとせずにそのまま、小走りでぼくを追い越して行ったのだ。
「え??おい!」ぼくは思わず声を掛けた。「どこ行くんだ?」
しかし高木セナは何も答えず、雑木林をさっさと抜けて、広場の方に出て行った。

予想外の事の成り行きに驚いてしまって、今度はぼくが小走りになって高木セナの後を追いかけた。そしてぼくが林から出た時、彼女は芝生広場に立って首をあちこち動かし、明らかに何かを探していた。
「いったいぜんたい、どうしたんだよ?」ぼくはすかさず聞いた。
「‥いない。 どこにもいないの」高木セナがぼくを見て答えた。「ツジウラさん、どこかへ行っちゃったみたい‥‥」
「ツジウラだって? どうしてツジウラ ソノを捜してる?」
「すごく気になって、聞いてみたいことがあったの」

「‥‥‥もしかして、ぼくたちがここに戻って来た時、ツジウラの様子が随分とおかしかったからかい?」少し間を置いて、ぼくは聞いてみた。
「‥うん」高木セナは複雑な表情で頷(うなず)いた。「あの時、ツジウラさんが私たちに、『こんな遠足 来なければよかった』て言った時、すごくびっくりしたの」
ぼくは思い出した。ツジウラ ソノの言葉を二人で受けたあの時、そう言えば高木セナは、『え??』と一声漏らしてそのまま黙り込んでしまった。その彼女の反応は、ぼくには彼女が、突然何か特別なことに気がついてしまって驚いている‥みたいに見えた。
高木セナは続ける。「私‥‥『遠足』という言葉を聞いて、そして改めて『ツジウラさんの顔』をちゃんと見て、そしたら駐車場のトイレに隠れていた時に見た『夢』の内容を、すっかり、細かなところまで思い出してしまったの‥‥‥」

「その『夢』というのは確か‥‥、ぼくと君が将来『結婚している』ことを暗示してて、君が照れくさそうにして話したがらなかった、例の夢のことかい?」
「‥‥‥‥‥うん」 高木セナは、複雑だった表情をさらに複雑にして、いつもよりはるかに小さい動作で‥‥頷いた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (177)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十二

ぼくと高木セナが駐車場にいた時に聞こえてきた『風を切る様な音?何かが軋みを上げる音?』は恐らく、葉子先生の容態(ようだい)の変化に気がついたみんなが思わず漏らした『悲痛の叫び声』だったのだろう‥‥‥‥

草の上‥‥、いくつもの切り傷からの出血で赤く染まった背中をかばって、両腕を枕に顔を埋(うず)めて俯(うつぶ)せに横たわっている葉子先生の姿を、しばらくただ黙って眺めていたぼくは、「もう‥‥このままでいい‥‥‥」と思った。
実践したことはない知識だけのものだったが、心肺蘇生などの救命処置を施すこともできたかも知れない。しかしあくまでそれは、救急救命士の到着を前提とした、彼らが来るまでの間に合わせの処置でしかないだろうし、その頼みの救急車は、ここに到着することはないのだ。きっと駐車場に着く前の道路上のどこかで『ヒトデナシ』によって阻止され、救急車だけではなくここに近づこうとした人間は今までもそしてこれからもずっと、全員が全員、殺されていくのだ‥‥‥‥‥

気がつくといつの間にかぼくのすぐ後ろに高木セナも座り込んでいて、振り向いたぼくに、今にも涙がこぼれ落ちそうな悲痛な目を向けた。
「葉子先生は‥‥、眠っている‥だけなんでしょ?」彼女は問うた。
「‥‥‥‥‥‥‥」ぼくは黙ったまま彼女を見つめ、首を小さく横に振った。
その反応を見て高木セナはギュッと目をつぶり、祈る様なかたちに両手を組んでおでこに押しつけてすすり泣き始めた。幾筋もの涙が、後から後から彼女の頬を伝った。

「葉子先生は今まで‥‥、懸命に彼女の役割を果たして来たんだ。このまま‥安らかに寝かせてあげよう‥‥‥」ぼくは高木セナに、そして葉子先生を囲んでいるみんなに、(そしてたぶん自分自身に‥)言い聞かせた。
するとぼくの後方の少し離れた場所から、「ヒカリは‥‥ 大人みたいなことを平気で言うんだな‥」という声が帰って来た。モリオだった。「いつだって大人は、みんなそんなこと言って全部済まそうとするんだ‥‥」
「違う!違うよ、モリオ!済まそうとしているわけじゃない」ぼくは反論した。「大人になったら!大人になったらみんな!どうしようもないことがあって!‥‥‥‥」しかし後の言葉が出て来なかった。失ってしまった『ソラ』への思いが突然、堰(せき)を切ったみたいに頭の中に溢れ出し、白波を立てて駆け巡っていた。
「どうしようもないことがあって‥ 何だよ?」モリオが問い質した。

絶望があって‥‥打ちのめされ、打ちひしがれる。この先をどうやって生きて行ったら良いのか‥‥分からなくなる。本当の絶望は、一つ二つの言葉で済ましてしまえるほど生易(なまやさ)しいものでは決してない。しかしそれでも大人は、そんな現実から逃げられないで、それから先もずっと、どうにかこうにか誤魔化したり取り繕(つくろ)いながらでも、生きて行かなければならないんだ! と、ぼくはモリオに叫んでしまいたかった。
しかし、その衝動を押し留めてくれたものがあった。
すぐ後ろにいた高木セナが、恥ずかしがっていた人目もはばからず、いつの間にかぼくの左手を取って優しく両手で包んでくれていたのだ。

そうか、彼女は‥‥ ぼくと『あの絶望』を共有した 唯一の人間なのだと‥‥‥ 改めて思った。

次回へ続く