悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (180)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十五

何事だと思った。全身が緊張と不安に包まれた。
慌ててドアを開けた僕は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく上がり込み、啜(すす)り泣きが聞こえてくるリビングルームに駆け込んだ。

妻は、リビング中央のローテーブルの横にうずくまっていて、カーペットの敷かれた床の上に額(ひたい)をすりつけ、両手を前に投げ出していた。まるで何かに祈りを捧(ささ)げるみたいな格好で、泣き続けていたのだ。
僕はすぐさま妻に駆け寄り、手を差し伸べながら声を掛けた。「どうしたんだ?! 一体何があった???」
妻は答えない。答える余裕がない。ただ泣き続けている。
「しっかりしろ!」僕は、カーペットに投げ出されていた妻の左手を取って、両手で包み込むようにして握りしめた。
握った僕の手の圧力を感じてか、妻の啜り泣きが、むせび声に変わっていった。そして途切れ途切れに、こう言ったのだ。

「ソ‥ ソラが‥‥ き‥えて‥‥ いった ‥の」

「もしかして‥、『夢』を見たのか?」
僕の問いかけに、俯(うつむ)いたままの妻の頭が、縦に動いた。
「どんな『夢』だ? いったいどんな『夢』を見た?」
妻の頭が上がり、涙でぐしょぐしょになった顔をこちらに向けた。悲しみに濡れた目が僕を見つめ、口が震えながら開いていった。言葉を吐き出そうとしていた‥‥‥‥
しかし、そこまでだった。『夢』を思い返すことで悲しみが再び押し寄せて来たのだろう。妻はいきなり僕の胸にすがり、顔を埋(うず)めて大きな声で泣き始めてしまった。


しばらく時間が経過した後(のち)、泣き疲れてぐったりした妻が語り出した『夢』の内容は、次のようなものだった。
夢の中でソラと妻は、リビングのソファーに二人向き合って腰かけ、『二人あやとり』をしていたと言う。
あやとりの紐(ひも)は只々(ただただ)赤く、その鮮やかな赤が、ソラの小さな白い手の指と、妻のやはり白い大人の指に交互に掛かり、絡め取られて、二人の間を何度も行き来していた。
紐の線が作り出す赤い図形は、出だしの『川』に始まって、『山』や『田んぼ』、『吊り橋』や『鼓(つづみ)』などと、取り合うごとに変化していく。複雑になったかと思えば単純に戻り、また複雑になってはまた戻るを繰り返していた。
「あなた‥上手ね」妻が、器用に指を動かして紐を取るソラを褒(ほ)めると、目の前のソラはニコリと自慢げに笑ったそうだ。「さあ、かあさん。取って」ソラがそう言って次に差し出した図形に、妻が目を戻すと‥‥、それは今まで見たことも無い複雑なものだった。
「えーと、これは‥‥」両手の指をさまよわせ逡巡(しゅんじゅん)する妻。
「さあ、早く取って。取れなかったら終わり」
「うーん、ちょっと待って。そう急(せ)かさないで‥‥‥」
「終わっちゃうよ」
「わかったから‥」
「終わっちゃう」
「‥‥‥‥‥」
「終わっちゃう‥てば」
「わかったから!もう少し考えさせて!」ソラの急かす声に苛々(いらいら)して、不覚にも語気が強くなってしまった。それに気づいて、「ごめん。もう少しだけ時間をちょうだいな」と言い直して、ソラの顔を見ると‥‥‥‥‥‥‥

ソラは、目にいっぱい涙をためて、ひどく悲しそうに‥‥‥、妻の方を見ていたそうだ。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (179)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十四

ソラは‥‥その朝もベッドにいて、上半身を楽な姿勢に起こして、春の日差しを和らげているレースの隙間から、窓の外を見ていた。
するとそこから見下ろせる住宅街の道路を、元気な声を上げながら、三人の小学生が連れ立って歩いて行くのが見えた。いつもの登校風景とは違って、彼ら全員がランドセルの代わりにカラフルで身軽なリュックを背負っていて、どうやら今日は、新学期早々の野外活動の日であるらしかった。
「えんそく‥‥ いくのかなぁ?」ソラが、眩(まぶ)しいものを見ているみたいな目をして、ぼそりと言った。
「そうみたいね。お天気で、良かったわね‥‥」ベッドの傍らで椅子に腰かけ、ソラを見守っていた妻が、さり気ないそよ風の様に返した。
ソラはその小学生たちを、ただ黙って目で追いかけていたが、彼らが視界から完全に消えてしまうと伏し目がちになり、いかにも詰まらなさそうにため息を一つついた。「‥‥ソラもえんそく、いきたいな‥‥‥」

「行けるさ! これから何度でも‥‥‥」
子供部屋の開けたままにしてあるドアの前で足を止め、さっきからこっそりと娘の様子を窺(うかが)っていた僕だったが、思わず声を掛けてしまった。
ソラが見た。妻も僕を見て、「あら‥、いつからそこに居たのよ?」と、呆(あき)れ顔をした。

「いつ? いついけるの?」ソラが聞いた。
「病気を治して元気になって‥‥小学生になったら、毎年毎年行けるじゃないか。中学生になっても、高校生になったって行けるんだぞ」そう答えながら僕は、僕の表情が、ソラの目にキラキラ輝いて映る事を期待して、自分の目と口元に精一杯の演技をさせてみた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」ソラはしばらくの間、じっと僕を見ていた。そして、「そうだね!」と急に納得したみたいにニッコリ微笑んだ。
僕は、ソラも演技をしている‥‥と思った。僕は自分の娘が、幼いながらも鋭い感受性を持ち合わせている事を常々(つねづね)経験していた。僕が希望を込めて発した言葉は、結果的に、そんな年端(としは)も行かない子の気を遣わせてしまったのだと、酷く後悔した。
こんな時、助けを求めるみたいにいつも、妻の方に目を向けてしまう。彼女もそれを承知していて、目を向けた途端、「そうよ」と頷いてソラに微笑んでみせ、娘の頭に右手を伸ばして優しく撫(な)でた。
僕は、妻が、ソラの母親が、誰よりも深い悲しみを心の奥底に潜(ひそ)ませて今を過ごしていることを良く知っている。彼女は『夢』を見て時々、人の行く末を予見してしまう能力を持っていた。その能力は確かなもので、一見的外(まとはず)れな『夢』であっても、解釈の問題を解決できれば、ほとんどが的中していると言っても過言ではなかった。
僕は、『あの日』を忘れる事はできない。セナを保育所に送り届けた僕は、いつもならそのまま仕事場に直行するのだが、その日は、忘れ物をしているのに気がついて、一旦自宅に戻ることにした。時間を考えれば、妻は丁度すれ違いで、家を出て仕事に向かっている頃だった。僕は迷わず鍵を出し、玄関の扉を開けようとした。

その時 家の中から‥ 明らかに 妻の泣き声が‥ 心を軋(きし)ませるみたいな 啜(すす)り泣きの声が‥ 聞こえて来た‥‥‥‥‥

次回へ続く