悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (176)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十一

「こんな遠足‥‥ 来なければよかった‥‥‥‥‥」

持ち前の感性で物事の本質を的確に捉え、いつも冷静に行動していたはずのツジウラ ソノ‥‥‥
そんな彼女にして、たったそれだけの呟きだったが‥‥、ぼくには『ひどく取り乱した感情的なもの』に響き、今までの彼女とは別人の口から出た言葉のように聞こえてしまった。
高木セナもやはりそう感じたのだろうと思う。「‥え??」と一言漏らしたきり、驚いた表情をしたまま押し黙ってしまった。

「やっぱり何かあったんだな!何があった?!」ぼくはツジウラ ソノに問い質した。
ツジウラ ソノは、込み上げてくる悲しみをまるで歯を食いしばって押し殺しているみたいに口を真一文字に閉じたまま、黙って片手だけを上げ、その手で雑木林の方を指差して見せた。モリオや他のみんなが身を潜めているはずの、大きなクヌギの木のある辺りだ。
「くそっ やっぱり!」嫌な予感が的中しそうなことへの苛立ちの言葉を吐き捨てて、ぼくは彼女が指し示す雑木林に向かって走り出した。高木セナも当然少し遅れて続く。
ツジウラ ソノは、ぼくらの後からついて来ることはなかった。ぼくは林の中に飛び込む寸前に、一瞬振り向いて彼女の方に目を向けたが、彼女はこちらに背を向けたまま、ただそのままの姿勢で、じっと立ち続けていた。

ザザササー ー ザザザー
雑木林の中、ぼくと高木セナが草を踏み散らかして近づく音に反応してこちらを見たのは、力なく地べたに座り込んでいたモリオだけだった。
「モリオ! いったい何があった!?みんな無事なのか??」
「‥‥よっ 葉子先生が‥‥‥」モリオは涙声で答えた。「息をしてない‥みたいなんだ」
「いや!」両手で口を覆い、高木セナが短い悲鳴の様な声を上げた。

葉子先生は‥‥、ぼくがここを離れる前と全く同じ体勢で、草の上に俯(うつぶ)せに横たわっていた。軽く組んだ両腕を枕にして頭をのせ、顔を下に向けているため、その表情を窺い知ることはできない。
先生の身体の両側にはそれぞれ、ミドリとフタハのふたりがすがる様に取り付いて、俯いたまま両肩を揺らしていた。彼女たちは懸命に声を押し殺しながら、嗚咽していた。
先生の足元には、応急手当をした右足を無造作に投げ出してタスクが座っていた。タスクは、「起きて‥葉子先生‥起きて‥ お願い‥葉子先生‥起きて‥」と、涙をぼろぼろ流しながら、消え入りそうな声で、まるで呪文の様にひたすら繰り返していた。
ぼくは、ミドリの左隣の草の上、先生の上半身の前に両膝をついた。
「息をしていないのは‥‥確かなのか?」ぼくは小声で、傍らのミドリに聞いた。
ミドリは、答えなかった。代わりに、先生の体を挟んだ向こう側に取り付いていたフタハが、泣き腫らした目をこちらに向けて、両目でゆっくりと瞬(まばた)きをして見せた。

「そうか‥‥‥」ぼくはそう言って、血で真っ赤に染まり(いや、ほとんどの部分がどす黒く乾き始めている)無残に切り刻まれた葉子先生のパーカーの背中を、しばらく見つめていた。
やがて諦めきれず、脈だけでも取ってみようと思った。両手首は顔の下だったので、パーカーのフードを少し除けて、首筋にある頸動脈(けいどうみゃく)に手を伸ばそうとした。
「‥‥‥‥‥‥‥」

葉子先生の首筋に十数匹の蟻が列を作って動いているのを見た時‥‥、ぼくは伸ばそうとした手をゆっくりと引っ込めて‥元に戻した‥‥‥‥。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (175)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十

「わたしたち‥‥どうしたらいいの?ヒカリくん‥」

高木セナの途方に暮れたそんな問いかけに、ぼくは答えられないでいた。考えていたのだ。
この『陸の孤島』から身動きが取れないでいるのなら、この先自分自身やみんなの身を守るため、『ヒトデナシ』が今までにしてきた行動の意味、あればの話だが何かヤツの『行動原理』みたいなものを知っておく必要があると思ったのだ。

「ハルサキ山に近づいて来た人間に誰彼(だれかれ)見境なく‥‥ただ祟りをなす山の神、ではなさそうなんだ‥‥‥‥」ぼくは独り言を呟いた。
目的はどうだ?『ヒトデナシ』にヤツなりの目的はあるのか?‥‥‥
目的ではないが、一つはっきり言える事はある。携帯電話だ。携帯電話で誰かと連絡をとろうとした人間を襲って、それを阻止しようとしている。水崎先生然(しか)り、教頭先生然り、掛けようとした葉子先生と、彼女から突然バトンタッチされた草口ミワ然り。連絡を取られるとマズイと考えたのだろうが、だったらまず、携帯電話を取り上げて使えないように破壊すれば済む話で‥、しかし『ヒトデナシ』はそうはしていない。携帯電話はそのままに、携帯を持っている手の指を切り落とした。
「‥‥やはり快楽を得る為に人間を傷つけて‥殺戮すること自体が‥‥‥ヤツの目的なのか???」傍らにいる高木セナには聞こえて欲しくない独り言だった‥‥‥‥‥

その時だった。ヒュンと風を切る様な音が、キュンキュンと何かが軋(きし)みを上げる音が、立て続けに聞こえた気がした。
「なっ、何だ今の??」ぼくは咄嗟(とっさ)に身構えて辺りを見回した。「今‥‥なにか聞こえなかったかい?」高木セナに確認する。
「き‥聞こえた。聞こえたよ。聞こえた‥」彼女は不安げな面持ちですぐに答えた。
ぼくと高木セナはその後、音がまた聞こえてこないかしばらくの間息を殺し、聞き耳を立てていた。しかし、いくら待ってももう何も聞こえてこなかった。

「また誰か‥‥襲われた?」
「‥‥‥かも‥知れない‥‥」どこから聞こえて来たのだろう?すぐ近くの物陰か?風が遠くから運んできた音だった気もするが、まったく見当がつかなかった。

「みんなの所へ‥‥戻ってみよう」嫌な予感がしていた。ぼくは声のトーンを落として高木セナに言った。彼女もいつもと違って、最小限の首の動きで頷(うなず)いて見せた。
ぼくは迷わず高木セナの手を取った。彼女が離れない様に手を繋(つな)いだのだ。「え?」そのぼくの行動に彼女は小さく声を漏らし、ほんのり顔を赤らめた。
「ゆっくりでいいから、なるべく音を立てないで、静かに歩こう」ぼくは周囲を隈なく警戒しつつ高木セナの手を引いて駐車場を横切り、芝生広場に足を踏み入れた。

最短距離で戻りたかったのは山々だが、風太郎先生が眠っている例の場所はやはり迂回した。
やがて芝生広場西端の林が近づいてきて、みんなが身を潜めている辺りの雑木林を窺ってみると、木々の物陰から出てきてじっと立っている、人影らしきものに気がついた。

「誰か‥いる」
「ああ‥‥」
さらに近づいて、それがツジウラ ソノであるのが分かった。
ツジウラ ソノもぼく達に気づいてこちらを見た。その途端、高木セナはぼくと繋いでいた手を素早く振りほどき、なぜか体の後ろにまわして隠した。恥ずかしかったのだ。ぼくは苦笑いした。
それよりも、近づくにつれ、ツジウラ ソノの様子がどこかおかしいことに気づき始めていた。ぼくは高木セナをほおっておいて、自分だけ足を速めた。

「何か‥ あったのかい?」ぼくはツジウラ ソノの7メートル手前から声を掛けた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」彼女は何も答えない。
2メートル手前まで近づいて見ると、彼女の両頬が涙で濡れているのが分かった。口は真一文字に硬く結ばれ、まるで何かを堪(こら)えているみたいだ。
「ツジウラさん‥」後から追いついて来た高木セナがさらに声を掛けた。
ぼくと高木セナはツジウラ ソノの前に立ち、彼女の答えを待った。

「‥こんな遠足‥‥ 来なければよかった‥‥‥‥‥」
ツジウラ ソノがそう呟いたのは、しばらく経ってからだった。

次回へ続く