悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (90)

第三夜〇流星群の夜 その四

全世界で毎日一万人以上の死者を数え始めた頃には、どの国を問わず浮足立っていた。
各国の政府は、内政の維持と国民の不安を出来るだけ取り除く事に躍起になったが、死者数は日を重ねるごとにうなぎ上りに増えていった。さらには「石の様になったすべての遺体」から放射線が出ている事実が報告されると、デモや暴動が頻発した。無差別テロや軍事クーデターもあった。
誰もが、手をこまねいたままではいられなくなっていた。ぼんやりとではあるが、世の終焉を意識せざるを得なくなっていたのだ。

そんな時、声を上げ始めたのが宗教関係者や環境保護団体であった。
「謎の病とそれに伴う死」は、人類の今までの愚かな振る舞いに対する「神の裁き」とか、「天罰」と呼ばれた。
地球温暖化対策だけでは到底おぼつかないとして、「地球上での人類の存在そのものを問う」意味合いの運動が展開された。
また、まったく成果の上げられないでいる疫学(えきがく)の分野以外から、「謎の病」への幾多の考察がなされた。
ある心理学者はこの病を「集合的無意識」下での感染であると唱え、人類の無意識の深層に潜んでいるものこそ今の状況を生み出している病原体であると主張した。集合的無意識とは、ユング心理学に登場する概念で、人類全体が共有している無意識の深層にある普遍的領域のことである。つまりその普遍的無意識領域で発生した感染は、人類と呼ばれているすべての人間に及ぶであろう可能性を、明らかに示唆(しさ)するものであった。
ネット上では、「ゴッホのひまわり」の文字が飛び交っていた。どうも「ゴッホの描いたひまわりの絵を見た経験のある人間が感染し、石になって死亡している」と言う意味の流言飛語(りゅうげんひご)の類(たぐい)だったが、いくつかの書き込みに触れてみると、次から次へと更なる情報を求めてしまう連鎖性の生じる、奇妙な説得力があった。
ゴッホのひまわりは七点の作品が知られているが、そのどれもが花瓶に活けられたひまわりの静物画である。ところがこのあまりにも有名な絵画は、次の解釈の下、人々から恐れられる存在となって騒がれていたのだ。「ゴッホのひまわり」では、「花瓶は人間の体」、「ひまわりの花は病原体」を意味していて、「花瓶に刺さったひまわり」の描写はつまり、「感染」を暗示しているのである。また、ゴッホの特異な筆使い( 筆ではなく、こてかも知れないが )の、絵の具がキャンバスにこってりと練り込まれて、まるでかさぶたみたいに乾いた様相が、石化する( 石になってしまう )イメージに重なるらしい。精神の病に苛まれながらも絵筆を取り続け、37歳で突然の死( 拳銃による自殺だったと言われているが )を迎えるまでの、あまりにも壮絶なゴッホの生涯を背景に、「ひまわり」を見た人々への呪詛(じゅそ)みたいな効果をもたらしているのだった。
「ゴッホの描いたひまわり」の人を石に変えて死亡させる力は、美術館や個人が所有する実物だけが持つものではないらしい。写真など世の中に出回っているあらゆる複製、ネットに情報としてアップされた画像もすべて含まれるらしい。また、目にする事で感染してから発病するまでの時間が人によってかなりの個人差がある様で、40年前の小学生の頃に学校の美術室に飾られていた「ひまわり」を見ていた過去を持つ男が昨日死んだり、上映されていた映画のワンシーンのバックの壁にさり気なく「ひまわり」がかかっていて、それを見ていた観客が座席に体を沈めたまま石になって発見されたと言う事例が記されていた。
冷静に眺めてみれば、すべては真実味の欠片もない戯言(たわごと)で、一笑に付すこともできる。しかし、誰もそうはしなかった。日々悪化の一途をたどる世界の情勢に、人々はもはや冷静ではいられなくなっていたのだ。

「謎の病」による死者数は全世界で一億の大台を超え‥‥、更にその倍の二億人になるまでには‥、一ヶ月とかからなかった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (89)

第三夜〇流星群の夜 その三

「人類は‥‥‥‥滅ぶの?」
「‥‥たぶん‥‥‥‥‥‥」

二人寄り添って座り込んでいる丘の正面、南の夜空にはオリオン座が輝いている。
三ツ星ベルトの左上に輝く1等星、冬の大三角を構成する星の一つでもあるベテルギウスに僕は目をやり、彼女に指し示した。
「星にだって終わりはある。あの赤っぽく見える星は、もうすぐ超新星爆発を起こして終わりを迎えると言われているんだ‥‥」
「もうすぐ?」
「もうすぐ‥て言ったって十万年以上先になるかも知れないけど‥‥、星が誕生して終わるまでの途方もない時間を考えると、もう終わりを迎えてるのは間違いないんだ。ちなみに、僕たちの太陽が終わるのは五十億年後だってさ‥‥‥‥」

そうだよ‥‥と、僕は心の中で、自分の言った事に自分自身で納得していた。
そうなんだ。太陽が終わりを迎える前に、この地球だって終わるのだ。太陽が膨張を始めて赤色巨星になっていく段階で地球はその熱を受けて干上がり、生命が生存できる環境ではなくなっているはずだ。人類がその時まで生き延びていたとしても、結局滅ぶのだ。
それに、別にその時まで待たなくても、巨大な隕石一つ地球にぶつかればその時点で滅ぶ。繁栄していた恐竜があっと言う間に絶滅したみたいに‥‥‥‥‥‥‥

「宇宙に想いを馳せていると‥‥・、世界中で今起こっている事なんて取るに足らないものの様な‥・気がするんだ」
僕は、少しシニカルに聞こえるだろう言葉を、彼女に囁(ささや)いてみた。
彼女はペテルギウスに目を向けたまましばらく黙っていたが、やがてこんな返事をした。
「人間の生きている時間なんて、星と比べたら一瞬の瞬きにも満たないだろうけど‥‥‥‥。人間には感情があるのよ。終わりが近づけば戸惑い、悲しみ、‥‥絶望する」


脱力感が大きくなっていき、数時間後には灰色の石みたいになって死に至る「謎の病」。その初期症状は、よくあるちょっとした疲労感と何ら変わりはなかった。栄養ドリンク一本飲んでおけば継続して働けると思える程度のものであった。そしてこの事が、死者が拡大していく前の頃、更なる悲劇を生んでいた事が分かる。
世界中で、航空機が原因不明の墜落事故を起こし始めた。一週間で三機の旅客機と、五機の小型民間機ならびに訓練中の軍戦闘機が落ちた。その内、海ではなしに陸の上に落ちた旅客機で、百数十名の乗員乗客の遺体が回収された際、座った状態の姿勢で石の様に変化していた操縦士の死体が確認された。
航空機の件とおそらく同じ原因で、海洋上で小型船舶の消息不明、大型貨物船の迷走 衝突事故が少なからず報告された。もちろん、陸上の道路を走る車に関しても同様であった。
謎の病がもたらす突然の死は、全世界の様々な活動に極めて深刻な状況を突きつけようとしていた。

人類が気づき始め、不安が広がっていった。死者は増え続けた。
感染症の定義に当てはまらず、脈絡(みゃくらく)もなく、まったくの無作為に、不特定の人間が毎日毎日着実に死んでいく。病に対する何の解明も進まないままでは、それを止める手立ては無かった。

全ての活動が限定的になり、経済は真綿で首を締めるが如く、徐々に停滞していった。

次回へ続く