悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (95)

第三夜〇流星群の夜 その九

彼女の家は、小高い丘を頂上付近まで上った見晴らしの良い場所にあった。大きな構えで敷地も広く、住宅地と言えど近所の建物から少々距離を置いて建っていた。それらの条件が彼女の父に、次の決断をさせたのだと思う。
「母さんのことは‥‥‥しばらくの間、誰にも知らせないでおきたい。母さんの体も、ベッドにこのまま寝かせておこうと考えている」

彼女は父親の言葉に最初は戸惑ったが、そこにある意味が理解できる気がした。
父は、母と離れたくないのだ。母はまだ生きていると信じているし、もし知らせたなら、母の体は『放射線の出る遺体』としてすぐに回収されるだろう。そうなったら彼女も彼女の父も、おそらくもう二度と母とは会えなくなる。
「放射線は‥‥大丈夫なの?」彼女は父に確認した。
「取りあえずは近所の人には迷惑が掛からないだろうし、寝室の壁には応急の処置を施すつもりでいる。線量計で放射線量、被ばく線量のチェックも怠(おこた)らない」
「わ、分かったわ。お父さん」彼女は大きく頷(うなず)いて見せた。しかしそんな彼女に、父はこう付け加える。「おまえはここを出なさい。当分の間、神奈川の叔母さんの家に厄介(やっかい)になるといい。父さんからちゃんとお願いしておくから‥‥」
「え?いやよ!私もお母さんと一緒にいたい」
「父さんだってずっと母さんの傍にいるわけじゃないさ。放射線の影響を考えると、それはどうも無理そうだからね。毎日少しの時間でも母さんの様子を見て、そして考えたい。考えたいんだ‥‥。自分がこれから何をすべきか‥‥‥‥」
「それなら私だって同じ。お母さんのいるこのお家にいて、お父さんと二人で考える」
どうにも引き下がりそうにない彼女に父は悲しそうな目をして首を振り、「父さんも母さんも、おまえを一番大切に思っている。これからもずっとだ。お願いだから父さんの言うことを聞いておくれ‥‥‥」

結局彼女は、父親の言葉に従う事にしたらしい。
「時々なら母さんに会いに来るといい。止めはしないさ」

そして、その二ヶ月後‥‥‥‥。
彼女が叔母の家で生活する様になってから、毎日欠かさず父親と取り合っていた連絡が、不意に途絶えた。心配して自宅に駆けつけた彼女は目撃する事になる。寝室のベッドの上で母と行儀よく並んで横たわり、すでに石の様に硬くなって動かなくなった父の姿を‥‥‥‥‥

父が母と同じ現象に見舞われたのは、彼女にとってやはり相当なショックだったらしい。だがそれ以上に彼女が感情を揺さぶられたのは、父と母の二人の手が繋がれている事に気づいた時だった。
その光景は「今も目に焼きついていて‥‥この先も消えることはない‥‥‥」と、彼女は涙を流しながら僕に語った。
おそらく彼女の父は、もし自分にもその時が来たらどうすべきかを考えていたに違いない。少しずつ動きが緩慢になっていく症状を自覚した彼は、まだなんとか体を動かしていられるうちにベッドまで行き、彼の妻の傍らに身を置いたのだ。そして、少し宙に浮いたままで硬くなっていた妻の片手に自分の片手を絡め、しっかりと握りしめた‥‥‥‥‥‥

彼女はきっと永遠に、二人をそのままにして置きたかったはずだ。
ところがすべての事実を知った彼女の叔母は、迷わず救急に通報した。
駆けつけて来たのは新しく大掛かりに組織された自衛隊の特別処理班で、彼女の両親の体はあっと言う間に家から運び出され、特別な車両に乗せられていった。
「お父さんとお母さんはずっと一緒‥‥。誰にも二人は引き離せない」一部始終を離れて見ていた彼女はそう呟いたそうだ。実際、彼女の父と母の体は手を繋いだまま石の様に硬くなった状態だったので、運び出される時も車に乗せられる時も、二人は『ずっと一緒』だった‥‥‥‥。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (94)

第三夜〇流星群の夜 その八

「‥だったら‥‥石の様になった人たちはみんな、死んでいないと言うこと?」
彼女は父親の話に、思わずそう問いかけたらしい。

「父さんはそう考えてる‥‥‥。まるで何かをやり過ごして羽化を待つ‥‥蛹(さなぎ)みたいに‥‥‥‥‥」
「サナギ?‥」
「ああ‥・そうだ‥‥。そうなんだ。父さんは若い頃、純粋な好奇心から母さんと一緒に、アサギマダラと言う海を渡る蝶(ちょう)を追いかけて沖縄まで行ったことがある。沖縄の島々にはアサギマダラの他に、固有種のオオゴマダラやリュウキュウアサギマダラなどがいてね、その内の一つの興味深い生態を知ったんだ」
耳にするのが今のこの状況でなかったなら、父の話はきっとロマンチックに聞こえたことだろうと彼女は思った。
「毎年台風のシーズンには、沖縄の島々は、発達途中の強い勢力を持つ台風の脅威にさらされる。蝶の蛹がいっせいに羽化したタイミングで台風の直撃を受けたなら、全滅の危機に陥るだろう。ところが蝶は、種としてそのリスクをちゃんと把握していて、時期をずらして羽化する蛹が必ずいくらか存在し、全滅を回避するらしい‥‥‥‥‥」

彼女の父はここでしばらく間を置いて、彼女を真っすぐ見つめ直してこう続けたそうだ。
「父さんはこの先‥‥近い未来に、蝶にとっての台風みたいな、人類にとって全滅の可能性のある一大事が地球に起ころうとしている‥‥・そんな気がしてならないんだ。だから石の様になった人たちとはつまり、全滅を回避するために『時間の流れ方の違う蛹』になって、それをやり過ごそうとしている存在なのかも知れないと‥・考える様になったんだ」
彼女は、この時ほど父のイマジネーションに感服した事はなかったと、後に僕に語った。

さらに彼女の父は、所謂(いわゆる)『暫くして遺体から出始める放射線』への疑問も、やはり蝶に例えて説明を試みている。
「オオゴマダラの蛹は金色で‥・、幼虫の色も際立つ白黒の縞模様に赤い斑点が並んでいる。これは毒を持つ生き物によくある『警戒色』で、つまり幼虫は、アルカロイドを含んだ植物の葉を食べて育ち、体内にその毒素を貯め込んで、他の動物などから捕食されることを防いでいる。‥‥もしかしたら『石の様になった人たち』から出始める放射線は、『警戒色』と同じ意味合いで『石の様になった人たち』の体を守ろうとしているのではないだろうか。もし放射線が出なかったら、石の様になった全ての人たちの体は『遺体』として扱われ、焼却したり溶かしたりが試され、それが無理だと分かった後にはそこら中の土に埋められたり、海などにも投棄されたかも知れない。これは、時が経っていつか彼らが元の時間の流れを取り戻した場合、彼らの生命を脅かす結果に繋がりかねない‥‥‥‥‥」
実際、彼女の父が予想した通り、『遺体』として認識されている『石の様になった人たち』の体は、放射線が確認されてからは慎重に扱われている。ガラス固化体として体全部を閉じ込め、地中深く埋める案も出たが、あまりにも対象が多すぎて予算が組めず、実行不可能な空論に終わった。現状はと言うと、『死亡者』が続出してチームの維持ができなくなり試合の予定が組めなくなったプロスポーツのスタジアムなどが政府に借り上げられ、特別なシートで覆われて、日々増加していく膨大な数の『遺体』の集積場、名目上の仮置き場となった。無論、その周辺数キロは行動制限区域に指定されている。

父親の話を一通り聞き終えた彼女は、取り乱していた気持ちが幾分落ち着いてきているのを感じた。ベッドに歩み寄り、そこに横たわる母親の体にそっと手を置いた。
「お母さんの体からも‥‥‥‥もうすぐ放射線が出始める?」
「ああ‥‥‥たぶん」彼女の父は、静かにそう答えた。

次回へ続く