悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (86)

第二夜〇仮面 編集後記

「仮面」と言うタイトルは、単行本「リアリティー」に収録されている短編の中にも存在します。
あえて同じ題名を使用したのは、今回はまさしく「物質としての仮面」そのものがストーリーのカギを握るからです。

ペルソナ(仮面)はユングの心理学における概念の一つですが、具体的に着ける仮面ではなく、周りに対して装う人格だったりします。その象徴的な意味合いをある程度具象化して、着けていた仮面が外れて落ちたらどうなるだろうかと思って書いてみました。
実は今回の「仮面」には原案となるものがあって、やはり単行本「リアリティー」に収録されているオムニバス短編「土色画劇」の中の一編、「自分嫌い」がそれでした。「自分嫌い」も言わば悪夢の話で、自分自身でありながら「仮面的な人格」の日常の言動がどうにも我慢できない女の子の葛藤を描いています。数ページのごく短いものですが、私自身結構気に入っていて、いつかもっと掘り下げて長くしてみたいと考えていました。いざ取り掛かってみて、あれこれいじって膨らませていたら、まったく別の話になってしまいました。
主人公の「私」には酷な展開でしたが、これもまたアイデンティティーの定まらぬ中、日々山積みになった理不尽な課題を目の前にして右往左往し生きている若者だからこそ、見てしまった「悪夢」でありました。

作中登場する架空のアニメ「天と地と僕と」ですが、ストーリーのクライマックスと結末をある程度書いておいた方が良かったのでしょうが、上手く盛り込めませんでした。少し残念です。
ご感想などお聞かせ願えれば幸いです。

次回からの第三夜ですが、「遠足」か「流星群の夜」を予定しています。直前でまた別のものに変更する場合もありますので、その時はご容赦ください。

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (85)

第二夜〇仮面 その二十九

沼の水は‥‥‥冷たくはなかった。
いや、もしかしたら私は‥‥‥沼に入る覚悟を決めた瞬間から無意識のうちに、五感から来る情報を出来るだけ遮断してしまおうとしていたのかもしれない‥‥‥‥
また、あるいは‥‥‥仮面を着けたもの達の手招き(十本の片手がてんでんばらばらにゆらゆらと揺れ続けている様子)を見続けたせいで、何か暗示めいた誘導操作にかかってしまったのだろうか‥‥‥‥‥‥
目に映る光景も、耳に届く物音も、足を包んですり抜けて行く水の感触も、すべて自分自身から遠いところにいる誰かが見たり聞いたり感じたりしている事の様に思えていた。

入った時は脛(すね)辺りだった水が、三歩進んだだけでスカートと太股(ふともも)を濡らし、五歩目で腰まで来た。
夕暮れ前に見た時は確かこの先が急に深くなっていて、水底は深すぎてもう臨めなかったはずだ。だから次に運ぶさらなる二歩先はもう足が着かないだろう‥‥‥。私を待ち受けるみたいに大きく開いている例の漆黒の穴は、その真っすぐ前方にある。
私は目を閉じた。浮かぶのか‥沈むのか‥‥、沼の水にこの身を委ねようと思った。一歩足を踏み出し‥・ゆっくりと二歩目を蹴った‥‥‥‥‥‥

サワ‥‥・ザワザワザワゾワワ

私は水没しなかった。が‥‥‥、何かが体中に巻きついて強く圧迫する感覚があった。
私は目を開けて「え⁈」と声を上げた。

私の顔のすぐ目の前に文音の顔があった!私の左肩越しに凪子と陶子のくっついて歪んだ二つの顔があった!私の右腕に絡んで噛みつきそうな沙織の横顔があった!そして水の中、私の腰に張りついて見上げている実奈の顔があったのだ!

握っている。みんなの五つの体に見えたものが、明らかに私の体を握りしめている。
私はその時悟った。これは巨大な手だ。みんなに見えていたものは、みんなの仮面を着けてそれぞれ彼女達に擬態した五本の指だったのだと。手招きしている時、水面下にうっすらと伸びて続いて見えていた木の幹の様なものは巨大な腕なのだ。
水中にある私の下半身にはさらに五つの顔、私の仮面を着けたもう片方の指と手がやはり私を握っている。
つまりはさっきまで、両手の十本の擬態した指を水面に突き出し、私に手招きをしていたわけか‥‥‥。だったらこの巨大な両手の持ち主は‥‥‥‥‥‥
その時、前方の水中‥‥、開いている大きな穴の上辺りにふたたび、二つの丸く大きな鈍い光が灯った。
間違いない。「やっぱり、目だ。目だったんだ」そう口走り、はっきりとそれを見すえた瞬間、絶望が私を襲っていた。「ああ‥」理解してしまった。水の中に開いている穴は洞窟でも異世界への入り口でも何でもない。おそらくこの沼に住む巨大な存在‥・の、口ではないか!

ズボボッ ブグブググググググーーッ
物凄い力が私を水中に引きずり込み、巨大な口の漆黒の闇の中へと問答無用で押し込めた。
何を思う間もなかった。私の体から巻きついていた手が離れていった次の瞬間、口は瞬く間に閉じられた。
私が最後に見たのは、口の内側に数知れず並んでいた奇妙な形状の大きな歯。最後に聞いたのは、私の肉と骨が潰れて砕けていく鈍い音だった‥‥‥‥‥‥