ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (56)

最終話「夕暮れ」 その十三
「・・・人間は・・簡単ではない」

道で出会った知り合いと満面の笑みで挨拶を交わし、振り返った瞬間、能面のような表情に戻る町のおばさん。
みんなが楽し気にしているところに入ってきて、一人一人の目を見てその様子をうかがいながら全てをぶち壊しにする行動をとる同級生。
なぜ自分がしかられているのかが理解できないでいる子供を前に、一方的に激昂(げきこう)し続ける小学校教師。

あかね書房「少年少女世界推理文学全集」で読んだ、スティブンソン作「ジキル博士とハイド氏」は、小学生だった私がすでに薄々気づき始めていた「人間の正体」とも言うべきものに肉薄する小説でした。

イギリスの作家スティブンソン(スティーヴンソン)は、子供向け冒険小説の傑作「宝島」の著者としても有名ですが、「ジキル博士とハイド氏」は、今ではその題名が多重人格(解離性同一性障害)の代名詞ともなっている氏のもう一つの代表作です。
私はこの小説で、初めて「二重人格」という言葉を知りました。
作中ジキル博士は、人間(博士自身)の中にある善と悪の人格を分離する薬を開発しようと試みます。出来上がったのは、悪の人格だけを切り離し、さらには姿さえも変容させてしまう不十分な薬。しかし悪の人格「ハイド」を手中にしたジキル博士は、世間での善良な紳士「ジキル」では叶えられない快楽への欲望を満たすため、薬を飲む事でハイド氏との二重生活を送るようになります。
やがて事件は起こるべくして起こり、この作品の謎解きの要素となっていくわけですが、悪の人格「ハイド氏」が暴走し始めて薬を介することなしに出現するようになり、ついには「ジキル博士」をおしのけ肉体を占領しようとする状況に至って話は幕を下ろします。

私が少年だった頃、幾多の不可解もしくは不条理に遭遇してきたわけですが、思い返すとそのほとんどが人間のなせるものであった事に気づかされます。
「ジキル博士とハイド氏」を読んで考えるようになったのは、人間の内面の世界。そこにあるものが単純に善と悪との葛藤だとは思いませんが、確かに複雑に絡まった何かが隠れ隠されていて、それが突然顔を覗かせたり、制御出来なくなって爆発したりする、恐ろしいのはこういう時の人間なのだとつくづく思いました。
さらに、自分もひとりの人間だと認識して考えを巡らせたのは自身の内面で、そこにあったのは、他人に知られまいとひた隠しにしている幾つかの感情らしきもの・・でした。

次回へ続く

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