ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (3)

本編に触れる前に時代背景を知って頂きたく、今回も当時のテレビ番組について書いていきます。

1960年代後半、「テレビアニメ」はしっかりとお茶の間(昭和の表現ですね)に定着していきます。
ヒーローやロボットが活躍する冒険活劇に加え、1964年開催の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーボールを代表とする競技種目や人気の野球などのスポーツもの(後に「スポ根もの」と呼ばれる)、忍者が活躍する時代劇、妖怪などの分野が登場します。

漫画原作はアニメ化されるだけではありません。手塚治虫先生が「テレビアニメ」分野を開拓する以前から、数々の漫画が実写映像化されてきました。「鉄腕アトム」や「鉄人28号」も例外ではありません。
実写ドラマの歴史は古く、私が記憶している最初はぎりぎり「忍者部隊月光」からでしょうか。

漫画原作の実写ドラマは結構名作が多く、1960年代後半のお気に入りのものは、頭がデカくて無表情のマスク(お面)が不気味な「忍者ハットリくん」、首人形がトラウマ的な恐ろしさだった「悪魔くん」、金目像が見たくて観ていた「仮面の忍者赤影」などです。

ただここで記しておかなければならないのは、少年達を虜にした漫画原作以外のテレビムーブメントです。
イギリス、ジェリー・アンダーソン制作の特撮人形劇と、円谷プロ制作の空想特撮シリーズの登場です。
「海底大戦争」
「サンダーバード」
「キャプテンスカーレット」
「ウルトラQ」
「ウルトラマン」
「ウルトラセブン」

見たことのない乗り物のミニチュアワークや怪獣が当時の子供たちにどれほどのインパクトを与えたか、はかり知れません。
漫画界もそれらに明らかに影響されていきます。

そして満を持して登場するのが、後の巨大ロボットアニメブームへの指針的作品「ジャイアントロボ」です。
「ジャイアントロボ」は「鉄人28号」と同じ横山光輝先生の原案・原作の実写特撮ドラマで、アニメでは表現できなかったロボットの存在感が際立っていました。
前述した特撮番組の影響も垣間見れて、操縦システムの高度化(腕時計型の音声入力装置)やロボットの体内に隠された武器の数々(ミサイルや破壊光線)は1960年代前半のアニメからは隔世の感があります。

今考えるに、与えられる側の少年にとって漫画であれアニメであれ特撮であれ区別はなく、それに「胸躍らせる」事ができれば幸せだったのかもしれません。
表現方法は間違いなく刻々進化しています。
問題なのはいつまで「少年」でいられるかだという事に当時を振り返って気づかされました。

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (2)

今回は「ぼくらのウルトラ冒険少年画報」本編内で折々の情報として挿入していこうと考えていた当時のテレビアニメについて記してみようと思います。
以下年表(1963年~1966年)を作成した時にリストアップしたタイトルです。
「鉄腕アトム」
「鉄人28号」
「エイトマン」
「狼少年ケン」
「ビッグX」
「スーパージェッター」
「宇宙エース」
「宇宙少年ソラン」
「遊星少年パピー」
「W3(ワンダースリー)」
「ジャングル大帝」
「オバケのQ太郎」
「おそ松くん」
「レインボー戦隊ロビン」
「ハリスの旋風」

「サイボーグ009」は劇場で「ホルスの大冒険」や「ひょっこりひょうたん島(アニメ版)」と一緒に観た記憶が強く、テレビ版は曖昧なので外しました。
この中でも「鉄腕アトム」「鉄人28号」は以降の作品をけん引していった立役者であり、私自身の思い入れと共に簡単な考察をしてみます。

当時、漫画とアニメは同一に語られる印象があり作品の内容も記憶の中で渾然一体となっているかもしれませんがその点はご容赦下さい。

2作品は常に私の幼少期の記憶とともにあります。玩具(今でいうキャラクターグッズ)、雑誌、お菓子・・・当時のアニメはほとんどが一社提供で、鉄腕アトム=明治製菓、鉄人28号=江崎グリコという具合で生活の中にあふれていました。
お話も勧善懲悪の冒険譚が多く、中でもロボットが活躍するものが少年の心を虜にするのは必然でありました。
しかしながら今振り返ると「鉄腕アトム」と「鉄人28号」は全く違う色を持つ作品だという事に気が付かされます。
「鉄人28号」は金田正太郎少年がリモコンで操縦するロボットであり「敵に渡すな大事なリモコン」と歌で登場するとおり、少年に正義の心とリモコンがある限り悪を懲らしめることができるという単純明快な設定で、子供心にもしっくりくるものがありました。

一方「鉄腕アトム」は違います。アトムは天馬博士が交通事故で失った息子トビオの代わりとして創りあげたもので、さらに天馬博士に見限られサーカスに売られます。この時点でアトムの背負っているものが理解できる子供たちが何人いたでしょうか?
お茶の水博士の庇護を受け活躍するアトムは確かに魅力的ではありましたが、アトムが人間の社会にとけ込めばとけ込むほど、今でいう「AIが自我に目覚める」というテーマが浮き出だしてきます。
アトムはピノキオのように神様の力で人間になる事は出来ませんでした。
途中から妹ウランが登場し更にはパパやママがお茶の水博士からプレゼントされ家族を装う展開(バーチャルファミリー?)は違和感というより残酷さを感じさせるものがあり、ロボットが活躍する未来を夢見る幼少期の自分でもそこに微かな矛盾の匂いを感じ取っていたのか、手放しで楽しめるような事がなかったように思います。
手塚治虫先生のキャラクター設定は背負っているものがあまりにも重いと感じる事が多いです。先生が天才がゆえの哲学的な偏向なのかもしれません。

やがてテレビアニメは「マジンガーZ」を筆頭とする操縦型の巨大ロボットが主流となっていきます。日本のアニメ文化に造詣の深い「パシフィックリム」の監督ギレルモ・デル・トロ氏は、「巨大ロボット・科学技術への信頼性」は日本人特有なものだと語られていました。
私が「苦しむAIアトム」ではなく「リモコンで正義の意思を伝えられる鉄人」を好んだのも後のテレビアニメの潮流を暗示するものだったのかもしれません。