ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (5)

第一話「防空壕」 中編
郵便番号もバーコードも、ゲーム&ウオッチもまだ影も形もないアナログな時代、1960年中頃です。私は小学校2,3年生だったでしょうか。
遊びはたいがいが外。駄菓子屋に入りびったたり、野山を歩き回ったり、一番の遊び場は小学校でした。
今と違って当時の田舎の学校には塀やフェンスがなく、放課後はもちろん休日でも校舎内以外はどこでも出入りが自由でした。退屈したら小学校へ行けば誰かが居て、集まって何かが始まる。缶けり・鬼ごっこ・土団子作り・・・・
同級生だけではなく時には上級生とも遊んだりして色んな事(遊びの工夫や悪さまで)を教わりました。言わば学校は交流の場所であり、情報交換の場所だったのです。

その日もグラウンドで何かの遊びに興じていた私達。
と・・上空を爆音を響かせて飛行機が通過します。一人の上級生がそれを見て手を振りながら「ガム放ってェ~」(ガムを投げてくれの意)と叫び走り出しました。
側にいた私達もつられるように「ガム放ってェ~」と叫びながら走り出します。
飛行機はあっという間に小さくなり、見えなくなりました。
何の意味なのか知らずに繰り返していたこの遊びですが、「ギヴ・ミー・ア・チョコレート」。進駐軍に施しを求める行為だったのだと後に知りました。
本当の意味も知らずただ真似る事だけで子供の遊びとして伝承されていたわけです。
しかし大声を出しながら飛行機を追いかける、ただそれだけで結構楽しかった思い出があります。

「防空壕」の話に戻ります。
そんな日常のとある夏の午後だったでしょうか。
町中を友人と歩いていると、山の迫った民家の裏手の岩盤質の場所に掘られた防空壕の前に数人の上級生が居て、しばらくして入っていくのが見えました。
何か遊びが始まる予感がして急いで近づき穴の中を覗いてみると、暗闇にロウソクの灯りが一つともります。
「あ、なんじゃお前ら」
交渉の末、邪魔しないことを条件に中に入れてもらい彼らの「遊び」の一部始終を見る事ができました。

一人がどこから集めてきたのかポケットからいくつものセミの抜け殻を取り出し、あちらこちらの岩のくぼみに小さいロウソクと一緒に飾り始めます。
しばらくすると防空壕内全体が奇妙な祭壇のような場所に変貌していました。
ロウソクの灯りが揺れるたび幻想的な影が壁一面に踊ります。
「どーや」
私と友人は黙っていました・・・

意味などないのです。
全ては意味のない遊びでした。

次回、後編に続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (4)

今週からは「ぼくらのウルトラ冒険少年画報」のエピソードの原案について書いていこうと思います。

第一話「防空壕」 前編

私は南紀地方(和歌山県)の海に面した田舎町で生まれ育ちました。
1960年代後半の小学生時代・・・すでに復興を遂げた都会と違って時が止まったように太平洋戦争の爪痕がまだそこかしこに残されていました。
新築される前の実家には、玄関の柱に弾の痕が刻まれていたし、小学校の木造校舎の屋根瓦には迷彩がほどこされ、町中の山が迫った場所には「横穴の防空壕」がいたる所に掘られていてそれがそのままになって生活の中にとけ込んでいました。

「防空壕」は空襲の時に逃げ込む場所です。
戦略的に何の価値もなさそうな片田舎に空襲があったのかと疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、太平洋上の航空母艦や占領した島々から発進した米軍の戦闘機、爆撃機や攻撃機はまずは「紀伊半島」を目指し北上し、そこから左の「関西方面」もしくは右の「中京方面」へと進路を変えていったと聞きます。
紀伊半島南端近くに位置する私の町は言わば空襲に向かう米軍機の通り道だったようなのです。

親から何度も聞かされた話ですが、高台にある畑で農作業中の耳の遠かった老夫婦が空からの機銃掃射で落命されています。
数キロ離れた場所で列車を攻撃しようと旋回する戦闘機が今にもこちらに来そうに見え、身を隠す場所のない磯にいて恐怖で岩場にへばりついたと、父は若い頃の体験を語っていました。
「防空壕」はまさに町の人々の生死を分ける場所だったのです。

戦後20年近く経った時代に、私は当たり前のように毎日「防空壕」を見て育ちました。やがてそれは好奇の対象となり思わぬ恐怖の入口へと繋がっていくのです。

次回へ続く