悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (83)

第二夜〇仮面 その二十七

誘われている‥‥‥‥‥‥
全部の事の成り行きが‥‥‥私を沼へと誘っている‥‥‥‥‥‥

誘っているものが何なのか、まったく正体は分からない。誘っている目的も不明だ。
だがそれは、私の記憶や思考を正確に捉えて‥‥‥、捉えた情報を巧みに再現した上で誘っている。右側には「みんなの仮面」の五人、左側には「私の仮面」の五人。沼に沈めた‥あるいは沈んだ仮面が拠りどころとなったのだろう。正確に再現された彼らは、今もゆらゆらと休む事なく手招きを続けていた。今思えば、沼に来るように仕向けられた例のスマホへの着信も、同じものの仕業であったのだろう‥‥‥

「いったい‥‥何ものなの?」私は沼を見渡していた。

沼は‥‥‥、沼自体が「ひるこ神社」の御神体であるらしい。そこに住むもの、それはもしかしたら「神?‥‥・」ではないのか。それとも‥‥‥、私をどうにかしようと企む、得体のしれない「魔物?‥‥・」なのか‥‥‥・
私は水中に鈍く光っていた二つの目の様なものの存在を思い出して、見かけた同じ場所を探してみた。だが、空から照らす満月の位置が変わって水中に射す光の角度も変わったせいか、再度発見する事はできなかった。

「神様だとしても、魔物だとしても‥‥、どちらだって同じかも知れない」私は拭い去れない虚無感の中、そんな事を口走っていた。私の中途半端な知識でも、日本の神は八百万(やおよろず)、様々な神様がいて、人に災厄をもたらす魔物の様な神もいたはずだ。骨董屋のおじいさんの説明の、ここ「ひるこ神社」の祭神(さいじん)であるはずの「蛭子神」も、所以あって一度は流され、後に新たな存在として戻って来た経緯があるらしいではないか‥。日本人というのはそう言う神々の「諸刃の剣みたいな不気味な力」を、自分たちの都合の良い解釈と都合の良い寄り添い方で祀り上げ、やがてその力を頼って手を合わせ祈願する様になったのだろう。私もそんな日本人の一人‥‥。

「故きを捨つる心あらば‥・新しきもの来るやもしれず‥‥‥」ふたたび、石に刻まれていた碑文を諳(そら)んじてみる。改めて気づいたが、どうやら「蛭子神」にまつわる意味合いから、再生への期待が表現されていたらしい。

「いっそ‥‥あの手招きの誘いに、乗ってみる?‥‥‥‥‥」私の心にはその時、中学生の頃によくあった突然の衝動が久々に鎌首(かまくび)をもたげていた。すべてを破壊してしまいたくなる衝動。その破壊の対象は自分自身も含まれる。着けていた仮面が全部剥がれ落ち、本来の自分の姿に戻ったせいかもしれない。強く、抑えがたい衝動だ。
沼にこの身ごと投じて、新しい自分になれるのならば、それは極めて手っ取り早い気がする。この地に来ていろんなものを失って、どうせこのままではもう何処にも帰るつもりはないのだ。たとえ命を失う事になっても、それはそれで良い。後悔などしない。
「‥それに‥‥‥もしかしたら‥‥‥‥‥‥」馬鹿みたいな事も考える。「この沼が、私にとっての異世界への入り口かも知れない‥‥‥」
しかし、まったく馬鹿げているとも思えない。沼からの手招きを見続けているとなぜか‥・そんな気がしてくる。
ワタルが獣神界へ迷い込んだみたいに、私もまったく新しい世界で新しい人と出会い、新しい関係を築いて新しい生き方を見つけ出し、そして成長していきたい。そこにはきっと本物の友情、本物の信頼、本物の生きる目的があるのだ‥‥‥‥‥‥‥‥

「ああ‥‥」私は呻き声を漏らして立ち上がった。
と‥その瞬間、前方の沼の水の中、確か二つの目の様なものが光っていたそのちょうど下辺りに、洞窟の入り口の様な真っ黒い影が口を開け、拡がっていくのが見えた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (82)

第二夜〇仮面 その二十六

私は自分で気づかないうちに‥‥、何枚もの「仮面」を着けていたようだ‥‥‥。
そしてそれが今、外れていった。外れて、沼の底に沈んでいった。

「仮面が外れた」と言うのは‥‥‥、偽りの自分ではなくなった、あるいは本来の自分に戻った事を意味するのだろうか?
例えば、虚栄 虚飾にまみれていた心の穢(けが)れが拭い去られ、浄(きよ)められたみたいな感じで受け入れれば良いのだろうか‥‥‥‥‥‥

だったら私は‥‥‥どうして涙を流している?
無くなったかも知れないと思った顔がちゃんと残っていて、ほっとした涙ではない。なぜか‥‥‥悲しく‥なったのだ。

毎日の生活の中‥‥‥、生き難(にく)いと感じたり、上手くいかないと立ち止まってしまったなら、前を向こうとしている人間なら、そんな状況を少しでも何とかしたいと考えるだろう。お手本となる他人の生き方を真似(まね)てみたり、本音と建て前を使い分けるみたいな処世術まがいの色々を実践したりもするだろう。その場その場を何とか切り抜けようと、少しでも受けるダメージを軽くしとうと自分を偽って、押し殺して行動してみたりもする。それらが総じて「仮面を着けること」に繋がっていったのなら、それは非難されるべきものではないと私は思う。思いたい。様々な葛藤や止む負えない妥協の末に選択されてきた「血がにじんだ様な痛々しい生き方」であって、それを続けて来た私にはむしろ「仮面」は、心の血と汗と涙の結晶みたいに思えたのだ。
そんな私の大切な一部分であったとも言える「仮面」が、突然いくつも私から外れ‥‥、沼に沈んでいったのだ。
今までの生き方が、頑張って来たつもりの生き方が否定されて、「ちゃんと真面(まとも)に生きなさい」「もう一度やり直してみなさい」と言われているみたいで‥‥‥虚(むな)しく、ただ虚しく‥‥‥‥悲しかったのだ。

涙が止まっても、私は脱力して敷石の上に座り込んでいた。
友達の「みんな」を認識できなくなり、ここまで何とか生きてきた証(あかし)の様なものを失った。そして、「仮面」が象徴する私の生き方がすべてを招いたと言う事実を突きつけられた。
夜空に輝く満月は、私の計り知れない虚無感を照らし出していた。
私はここに‥‥、「切っ掛けの地」と呼ばれるこの場所に来るべきではなかったのだ。この先何を思い、何を考えて生きて行けば良いのだろうか‥‥‥‥‥‥

チャポ‥ッ‥ポ‥‥‥
焦点の定まっていなかった視界の隅、沼の水面の一部分がゆっくりと持ち上がっていく様子が映った。
見ると、すでにあった「みんなの振りをしているもの達」の左側6、7メートルのところ、まるで対を成す様に新たに五つの人の形をしたもの達が水面に立ち上がっていた。
「あ‥‥‥‥」
それは紛(まぎ)れもなく私。私の姿形(すがたかたち)。中学のセーラー服を着た私、お気に入りだったジャンパースカートを着た私、高校のブレザーを着た私、夏服の私、そして今の私と同じ格好の私。五人とも正確に、過去と現在の私をコピーしていた。
「‥仮面‥‥が落ちたせい‥か‥‥‥‥」私はすぐに理解した。五人の顔は、さっき水の中に沈んで消えていった仮面でできているのだと。
そして‥‥「五人の私」達もまた、「みんなの振りをしているもの達」と同じ様に、私に向かって手招きを始めたのだった。

次回へ続く