悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (79)

第二夜〇仮面 その二十三

見間違えるはずはない‥‥‥‥
文音‥‥凪子‥‥沙織‥‥陶子‥‥実奈‥‥‥‥‥‥
満月の光を受けた沼の水面(みなも)に、みんなはただゆらりと立っている。

「みんな‥‥‥‥どうしてそんなところにいるの?‥‥」
私は彼女達にできるだけ近づこうと、連なる敷石を辿(たど)って、最初に沼に来た時持っていた「みんなの顔」を水の中に沈めた場所‥水辺に最も近づける石の上まで歩いて行った。

「みんな! みんなぁ! みんなぁァァァ!」私は手を振った。
彼女達は答えない。やはりただ‥ゆらりと立っている。顔は無表情だが、私が知っている(認識できなくなる以前のままの)みんなだ。服装もそのままだが‥‥どこかのっぺりした輪郭で、ぬらりとした光沢を感じる。たぶん満月の光を浴びているせいなのかも知れない‥‥‥‥‥‥。
みんなが立っている所までは20メートル程か‥・。私は何とかあそこまで行けないものかと考える。今いる敷石の周囲の水深は確かにまだ足のふくらはぎを濡らす程度のものだが、そのすぐ先は急に深くなっている。たとえ背が立ったとしても、水底のあちこちに茂る水草に足を取られて歩けないかもしれない。
だったら泳ぐか?‥。きっとみんなが立っている場所はまた浅瀬になっているか、水面ぎりぎりまである大きな岩がそびえ立っているに違いない。そこまでなら何とかなる。
そんな事を考えていると、知ってか知らずか、今まで動きを見せなかったみんなが、みんなの手が、揃って動き出した。私に向かって手招きを始めたのだ。まるで柳の枝が揺れる様に、五本の手がひらりひらりと動いている。
「まっ、待って!今行くよぉ!」
私は泳ぐ覚悟を決めた。水に入る前、背負っていたリュックを岩の上に置いておこうと慌てて下ろした。と‥‥‥‥‥‥‥‥

私はその時、自分の右手が強く握られたままになっている事に気がついた。そしてその手は、ずっと力を込め続けて握られていたせいか、開こうとしても開かない。言う事を聞かなくなっている。
「なっ 何これ? 一体どうなってるの??」私はもう片方の手で右手を開こうと試みた。しかしどういうわけかびくともしない。どうしよう、このままでは泳ぐのに支障(ししょう)があるではないか。

「あっ‥‥」

私は‥‥‥、右手が何を握っているのか思い出した。スカートのポケットの中で‥、菓子の包み紙をずっと握りしめていたのだ。自覚はなかったが‥‥、ポケットから出しても、さっき手を振っていた時も、ずっと握りしめたままの状態でいたのだ。
「実奈が捨ててった‥‥‥‥ポイ捨てゴミ‥」
そう呟いた瞬間、噓のように力が抜けて右手が開いた。手のひらには固く小さくなった包み紙があった。
それを見て、私は我に返った気がした。さっきまでの慌てていた自分がどこかへ行っていた。‥‥‥実奈がそうさせてくれたのかも‥‥知れない。
私は改めて、冷静な目で、20メートル先の水面で手招きを続けているみんなを見た。

「あの表情‥‥‥‥‥‥」私は眉をひそめていた。
「私がこの沼に沈めた‥‥みんなの顔の表情とおんなじだ‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (78)

第二夜〇仮面 その二十二

「沼で待つ!」

スマホへの着信。ディスプレイに表示された認識不能のドット集合体の羅列の中、拾い出した五つのカタカナらしき文字は確かにそう解釈できる「意味を成した文章」に見えた。
そして、私はその解釈を信じた。なぜなら、「胎内くぐりの洞窟を体験した直後」の私だったからに他(ほか)ならない。胎内くぐりを体験する事で、「きっと何かが変わる」、「必ずや事態が変化する」と言う根拠のない期待が何時(いつ)しか芽生えて膨らんでいき、はっきりと自覚しないまま、現状を打破したいと願う私の「心の拠り所(よりどころ)」となっていたのだろう‥‥‥‥‥。

「認識できないでいた並行世界に、何か決定的な異変が生じたんだ!みんなが沼で私の現れるのを待っている!」

さらにはその解釈に身勝手な憶測も加味されて、私の頭の中は湧き立っていった。居ても立っても居られなくなった。

私は山を下りて行った。まだ身体のあちこちが痛かったし、特に顎(あご)のあたりには明らかな違和感が残っていた。それにあたりはすっかり日が暮れきった夜である。しかし、心が逸(はや)った。できる限り急ぎたかった。
胎内くぐりの洞窟の出口からの下り道は入り口への道とは別ルートになっていて、幸い、勾配が比較的緩やかでジグザグに折り返す回数も少なかった。夜の暗さは空に輝く満月が、足元が危うくならない程度に照らしてくれた。
来た時よりもずっと奥まった位置ではあったが、思っていたよりも早く「山道」まで下りることができた。後は沼のある「ひるこ神社」まで、この山道を戻るだけ。
「待ってて!みんなぁ!」
小走りとはいかないまでも、一生懸命足を動かした。僅かなでこぼこや小石に転びそうになりながらも、気持ちには張りがあった。いつの間にかスカートのポケットに手を突っ込み、来る途中で別々に拾った二つの「お菓子の包み紙」を一緒くたにして、強く握りしめていた。
やがて山道の右手に、どす黒いシルエットとなって神社の鳥居が見えてきた。私は微塵(みじん)の迷いもなく、その鳥居をくぐった。

「月‥‥‥‥‥」私は思わず足を止めてしまった。
満月‥。空にある‥満月の光‥‥が、沼全体を銀盤のごとく浮かび上がらせていたのだ。
それは、夕暮れ前の景色とはまったくの別物の、別世界の、幻想的な光景だった。

私は沼に見とれながら、やはり黒いシルエットとなった拝殿を迂回して石碑のある所まで行った。みんなが待っているとしたら、水際のこの場所である気がした。
だが、そこには誰もいなかった。沼の水に向かって続いている敷石を目で追ってみたが、どの石の上にもやはり人影は見当たらない‥‥‥‥‥‥

「‥え?」

目で追っていた敷石の連なりが水の上で途切れているその先‥‥‥、ずっと先の‥‥沼の真ん中辺りにあった何かが視界の隅に入った。
私は改めてその何かに視線を向ける。
「ぅ‥うそ‥‥‥‥」

信じ難い事だがそれは人に見えた。沼の水面(みなも)の上に人が立っている。いち‥にい、さん、しいぃ‥ご‥‥、それも五人いる‥‥‥。

それは紛れもない‥‥みんなの姿だった。

次回へ続く