ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (2)

今回は「ぼくらのウルトラ冒険少年画報」本編内で折々の情報として挿入していこうと考えていた当時のテレビアニメについて記してみようと思います。
以下年表(1963年~1966年)を作成した時にリストアップしたタイトルです。
「鉄腕アトム」
「鉄人28号」
「エイトマン」
「狼少年ケン」
「ビッグX」
「スーパージェッター」
「宇宙エース」
「宇宙少年ソラン」
「遊星少年パピー」
「W3(ワンダースリー)」
「ジャングル大帝」
「オバケのQ太郎」
「おそ松くん」
「レインボー戦隊ロビン」
「ハリスの旋風」

「サイボーグ009」は劇場で「ホルスの大冒険」や「ひょっこりひょうたん島(アニメ版)」と一緒に観た記憶が強く、テレビ版は曖昧なので外しました。
この中でも「鉄腕アトム」「鉄人28号」は以降の作品をけん引していった立役者であり、私自身の思い入れと共に簡単な考察をしてみます。

当時、漫画とアニメは同一に語られる印象があり作品の内容も記憶の中で渾然一体となっているかもしれませんがその点はご容赦下さい。

2作品は常に私の幼少期の記憶とともにあります。玩具(今でいうキャラクターグッズ)、雑誌、お菓子・・・当時のアニメはほとんどが一社提供で、鉄腕アトム=明治製菓、鉄人28号=江崎グリコという具合で生活の中にあふれていました。
お話も勧善懲悪の冒険譚が多く、中でもロボットが活躍するものが少年の心を虜にするのは必然でありました。
しかしながら今振り返ると「鉄腕アトム」と「鉄人28号」は全く違う色を持つ作品だという事に気が付かされます。
「鉄人28号」は金田正太郎少年がリモコンで操縦するロボットであり「敵に渡すな大事なリモコン」と歌で登場するとおり、少年に正義の心とリモコンがある限り悪を懲らしめることができるという単純明快な設定で、子供心にもしっくりくるものがありました。

一方「鉄腕アトム」は違います。アトムは天馬博士が交通事故で失った息子トビオの代わりとして創りあげたもので、さらに天馬博士に見限られサーカスに売られます。この時点でアトムの背負っているものが理解できる子供たちが何人いたでしょうか?
お茶の水博士の庇護を受け活躍するアトムは確かに魅力的ではありましたが、アトムが人間の社会にとけ込めばとけ込むほど、今でいう「AIが自我に目覚める」というテーマが浮き出だしてきます。
アトムはピノキオのように神様の力で人間になる事は出来ませんでした。
途中から妹ウランが登場し更にはパパやママがお茶の水博士からプレゼントされ家族を装う展開(バーチャルファミリー?)は違和感というより残酷さを感じさせるものがあり、ロボットが活躍する未来を夢見る幼少期の自分でもそこに微かな矛盾の匂いを感じ取っていたのか、手放しで楽しめるような事がなかったように思います。
手塚治虫先生のキャラクター設定は背負っているものがあまりにも重いと感じる事が多いです。先生が天才がゆえの哲学的な偏向なのかもしれません。

やがてテレビアニメは「マジンガーZ」を筆頭とする操縦型の巨大ロボットが主流となっていきます。日本のアニメ文化に造詣の深い「パシフィックリム」の監督ギレルモ・デル・トロ氏は、「巨大ロボット・科学技術への信頼性」は日本人特有なものだと語られていました。
私が「苦しむAIアトム」ではなく「リモコンで正義の意思を伝えられる鉄人」を好んだのも後のテレビアニメの潮流を暗示するものだったのかもしれません。

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (1)

今回タイトルとして掲げた「ぼくらのウルトラ冒険少年画報」は、シリーズ連載が終了した「巨人真伝トキ」の後に企画した案の一つで、私の小学生時代(1964年東京オリンピックに始まり1970年大阪万博に終わった盛りだくさんの時代でした)を投影した主人公が、感受性豊かで先入観のない子供の目が映し出す「不思議」で時には震え上がるほど「恐ろしい」世界を体験していくお話でした。
その頃のありったけの情報を交えながら描けたら厚みのあるストーリー展開が望めるとも考えました。

ちなみにタイトルは、当時の月刊漫画雑誌「ぼくら」(講談社)・「冒険王」(秋田書店)・「少年画報」(少年画報社)と、ウルトラQに始まるウルトラシリーズからいただきました。
漫画雑誌はすでに「少年マガジン」「少年サンデー」「少年キング」後追いで次々に創刊された「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」と、週刊漫画誌の時代でしたが、付録のついた(別冊の漫画小冊子や今でいうペーパークラフト的な紙工作が付いていた)月刊漫画誌が私には妙に記憶に残るものであり、少ない小遣いではなかなか買えない憧れだったのでタイトルに盛り込みました。
更に私は最初のテレビアニメ世代で、黎明期のテレビアニメ情報も話に絡めていこうという考えもありました。

当時の出来事、アニメや特撮番組などで年表を作成し、およそ八話構成でネームを描き始めましたが、残念ながら採用されることはありませんでした。

後に浦沢直樹先生が「20世紀少年」を掲載し始めそれを拝読した時、自分が描きたかったのはこういうものだったのか、読み物としてやはり大きなドラマ性が必要だったのだなと自分の力の無さを痛感したのを覚えています。

漫画でのリベンジはもはや叶いませんが、いくつかの面白いお話を時々絵を交えながら今後不定期でブログにあげていきたいと思います。
よろしかったらお付き合いください。