第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十五
何事だと思った。全身が緊張と不安に包まれた。
慌ててドアを開けた僕は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく上がり込み、啜(すす)り泣きが聞こえてくるリビングルームに駆け込んだ。
妻は、リビング中央のローテーブルの横にうずくまっていて、カーペットの敷かれた床の上に額(ひたい)をすりつけ、両手を前に投げ出していた。まるで何かに祈りを捧(ささ)げるみたいな格好で、泣き続けていたのだ。
僕はすぐさま妻に駆け寄り、手を差し伸べながら声を掛けた。「どうしたんだ?! 一体何があった???」
妻は答えない。答える余裕がない。ただ泣き続けている。
「しっかりしろ!」僕は、カーペットに投げ出されていた妻の左手を取って、両手で包み込むようにして握りしめた。
握った僕の手の圧力を感じてか、妻の啜り泣きが、むせび声に変わっていった。そして途切れ途切れに、こう言ったのだ。
「ソ‥ ソラが‥‥ き‥えて‥‥ いった ‥の」
「もしかして‥、『夢』を見たのか?」
僕の問いかけに、俯(うつむ)いたままの妻の頭が、縦に動いた。
「どんな『夢』だ? いったいどんな『夢』を見た?」
妻の頭が上がり、涙でぐしょぐしょになった顔をこちらに向けた。悲しみに濡れた目が僕を見つめ、口が震えながら開いていった。言葉を吐き出そうとしていた‥‥‥‥
しかし、そこまでだった。『夢』を思い返すことで悲しみが再び押し寄せて来たのだろう。妻はいきなり僕の胸にすがり、顔を埋(うず)めて大きな声で泣き始めてしまった。
しばらく時間が経過した後(のち)、泣き疲れてぐったりした妻が語り出した『夢』の内容は、次のようなものだった。
夢の中でソラと妻は、リビングのソファーに二人向き合って腰かけ、『二人あやとり』をしていたと言う。
あやとりの紐(ひも)は只々(ただただ)赤く、その鮮やかな赤が、ソラの小さな白い手の指と、妻のやはり白い大人の指に交互に掛かり、絡め取られて、二人の間を何度も行き来していた。
紐の線が作り出す赤い図形は、出だしの『川』に始まって、『山』や『田んぼ』、『吊り橋』や『鼓(つづみ)』などと、取り合うごとに変化していく。複雑になったかと思えば単純に戻り、また複雑になってはまた戻るを繰り返していた。
「あなた‥上手ね」妻が、器用に指を動かして紐を取るソラを褒(ほ)めると、目の前のソラはニコリと自慢げに笑ったそうだ。「さあ、かあさん。取って」ソラがそう言って次に差し出した図形に、妻が目を戻すと‥‥、それは今まで見たことも無い複雑なものだった。
「えーと、これは‥‥」両手の指をさまよわせ逡巡(しゅんじゅん)する妻。
「さあ、早く取って。取れなかったら終わり」
「うーん、ちょっと待って。そう急(せ)かさないで‥‥‥」
「終わっちゃうよ」
「わかったから‥」
「終わっちゃう」
「‥‥‥‥‥」
「終わっちゃう‥てば」
「わかったから!もう少し考えさせて!」ソラの急かす声に苛々(いらいら)して、不覚にも語気が強くなってしまった。それに気づいて、「ごめん。もう少しだけ時間をちょうだいな」と言い直して、ソラの顔を見ると‥‥‥‥‥‥‥
ソラは、目にいっぱい涙をためて、ひどく悲しそうに‥‥‥、妻の方を見ていたそうだ。
次回へ続く
お久しぶりです(^.^)
楽しみにブログ拝見していますが仕事の休み時間に読ませて頂いているのでコメントが出来ずにいました。
ブログを拝見する時間が楽しみな時間なのでこれからも更新宜しくお願いしますね~。
コメントありがとうございます。
お忙しそうですが、文面から、日々の生活にしっかりとハリがあるように感じられて、お元気そうで何よりです。
私のブログが、休み時間に飲む例えば一杯のコーヒーであり得たら、こんな嬉しい事はありません。味の方はなかなか保証できかねますが、次にまた飲んでみたくなるように頑張っていきます。