悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (198)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十三

ソラは‥ まるで、目覚めることが難しいだけの深い眠りに落ちていったみたいに‥‥、病院のベッドの上で息を引き取った。
そんなソラに追いすがって泣き続ける妻がいて、僕はと言えば、彼女をそのままにしてひとりで病室を出たのだ。どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。人気のない冷たい廊下をふらふらと当ても無く、ただ彷徨(さまよ)っていたのを‥朧(おぼろ)げに憶えている‥‥‥‥‥‥

ふと気がつけば‥ 病院の関係者らしき男が、僕の行く手を阻(はば)む様に正面に立っていた。そして突然、僕は『あの相談』を持ちかけられたのだった。
彼は、娘の体の中で一体何が起こっていたのかを研究し突き止めたいと言う。そのためには、考えられる複数の組織の検体を採取し、しっかり腰を据えて検査をする必要があるらしい。すぐにでも親である僕の承諾を得、幾つかの書類を交わしたい旨(むね)を伝えてきた。彼の後方の少し離れた場所に、さっきからずっとこちらの様子を窺っている白衣を着た二人の若者がいて、彼が僕に頭を下げるタイミングに合わせて、彼らも小さく会釈(えしゃく)するのが見て取れた。

「ここに来て‥‥娘の体を‥調べる‥のですか?」
「はい‥」
「解剖を‥‥するのですか?」
「正式には病理解剖‥と言います」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ご葬儀の日までにはお返しするよう‥心掛けます」
「あっ‥」僕は思わず、小さく声を上げていた。
僕は、ソラが死んで、幼い娘の葬式を挙げなくてはならなくなったことにその時初めて思い至ったのだ。気がつくと、両頬(ほほ)を伝って落ちていくものがあった。僕は知らぬ間に、泣いていたのだ。

そして‥‥ 同時に、ソラと過ごしたある日の光景が、脳裏に浮かんでいた。
それは、ソラが最初の発作を起こす二ヶ月ほど前のことだったろうか‥‥。夕食のあと、リビングを横切ると、ソラがソファーに深く座り込み、勝手にテレビを点けて、洋画らしきものを観ていた。
ソラは、通りがかった僕にここぞとばかりに質問する。「ねえ とうさん、これはどこの国のお話?」
僕は振り返って、テレビモニターに目をやった。
「‥‥ヨーロッパが舞台の‥映画みたいだね。さすがにここだけじゃあ、どの国かまでは分からないなあ‥」
「だったら、とうさんもここへきて、いっしょにみてよ」ソラが、自分が陣取っているソファーの右側の空間を、可愛い手でポンポンと叩いた。
その仕草が愉快だったので、僕は「わかった‥。刺激の強いシーンがないとも‥限らないからなぁ」と言って、しばらく娘につき合うことにした。

その映画は、二十世紀初頭のオーストリア貴族一家のお話で、年頃だが病弱の姉と、彼女に憧れる年の離れた妹を中心にその日常が描かれていた。姉は、ある青年画家に恋をし、その青年も、どこか儚(はかな)げな姉の美しさに心惹かれていく。しかしそんなふたりの仲を、親が許すわけもなかった。それでも、姉の恋が成就することを願う妹の機転で、ふたりは密会を繰り返すこととなり、青年は彼女をモデルに一枚の絵を描き上げていくのだった。
そして物語のクライマックス。絵の完成を目前にして姉は病に倒れ、帰らぬ人となる。青年は悲嘆にくれ、自ら命を絶つのだった。
姉の葬儀の日、彼女の棺(ひつぎ)は、青年との思い出の花『アイリス』で埋めつくされていた。それは、天国でふたりが一緒になってほしいと願う、妹の仕業であった。

映画を観終わったソラは泣いていた。僕も少ししんみりとして、ソファーの横で鼻水をすする娘の頭を撫でた。
「とうさん‥‥ わたしがもし死んだら‥‥‥」唐突にソラが言った。「‥アイリスではなくて、『赤い野ばら』で‥‥、ひつぎをいっぱいにしてちょうだい‥‥‥」
「あ‥ ああ」僕は考えもなしに答えていた。「わかったよ。そうしよう‥‥」

そのやり取りが全部、キッチンで夕食の後片づけをしていた妻にも聞こえていて、苦笑いをしながら声を掛けて来た。
「とうさんたら‥、そんな約束しないでちょうだい。縁起でもない‥‥‥」

次回へ続く


悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (197)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十二

巨大迷路の廃墟は‥‥ 二度と近づきたくない場所だった。
廃墟の外壁(そとかべ)に逆さに吊るされた水崎先生や教頭先生、そして見知らぬ人たち‥‥。彼ら全員の腹が大きく裂かれていて、そこからはみ出した内臓が、まるで巨大な赤い花弁の重なりのごとく咲き誇る‥‥。そんなこの世の物とは思えない光景が、今もぼくの脳裏にくっきりと焼きついていた。

正体の知れない『風太郎先生』に連れられたツジウラ ソノが、巨大迷路の廃墟に向かったとしたら、急いで追いかけて止めなければならない。しかしそれは、もう一度あの場所に近づくことを意味していた。

「行くか‥ 」
ぼくは迷いを断ち切る様に呟いた。ふたりを捜しながら後をつけるより、最初から巨大迷路の廃墟へと向かった方が、もしかしたら彼らの先回りができるかも知れないと考えた。廃墟の外観である『こんもりした緑の小山』は、遠くを見渡せる広場の駐車場から何度も眺めてその位置は把握していたし、実際、一度すぐ目の前まで行って、帰って来たのだ。この場所からの大体の方向とそこへの最短距離は、頭の中に描けた。
賭けでもあったが、ぼくは『風太郎先生』からツジウラ ソノを引き離し連れ戻すべく、透かさず行動に移した。
ザザザザ ザザササァー
ぼくは、誰も足を踏み入れていない茂みの中へ飛び込んでいた。丈(たけ)の高い草を搔き分け、なぎ倒し、踏みつけながら、一心に進んだ。進みながら、高木セナを連れて来なくて良かったとつくづく思った。巨大迷路の廃墟に着く頃には手足は傷だらけになっているだろうし、着いたは着いたで、廃墟の外壁に吊るされた先生を含めた何人もの死体を、目(ま)の当たりにしなければならない。
「ひとりでどうか‥ 無事でいてくれ‥」ぼくは大股に足を運びながら、高木セナの顔を思い浮かべて祈った。

歯を食いしばり全身汗をかき、草木と格闘しながら、時を惜しむ無謀な前進が続いた。‥と、その時である。
「え?」

ぼくはピタリと動きを止めた。
人の声が‥聞こえた気がしたのだ。それも随分と近く、ほとんど自分の耳元と言ってもいいくらいだ。
ぼくは左右を見る。後ろを振り向いて確かめる。誰もいない‥‥‥‥‥

「許さない‥ と言ったか? ‥勝手な‥真似は‥ 許さない‥‥ と‥」
風が遠くから運んできた声‥だったのだろうか?

しばらく棒立ちのまま、首を傾(かし)げていたら‥、高木セナに言われたことを思い出した。

ヒカリくん‥ わけがわからないこと、小さく怒鳴るみたいに言ってて‥‥ 気味が悪かった‥‥‥

「‥‥もしかして‥‥‥‥ ぼくが自分で‥‥ 言ったのか????」
全身にかいた汗が、冷や汗に変わっていた‥‥‥‥‥

次回へ続く