悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (182)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十七

その『夢』の中で、妻は絶叫していた。
娘が消え失せた宙に向かって何度も何度も手を伸ばし、前のめりになって藻掻(もが)き、そして泣き喚(わめ)いた。

いつの間にか『夢』は終わっていたのだろうが、妻はやはり泣き喚いていた。夢と現実の境界を越えて、まるでその境目(さかいめ)が無かったかの様に、ずっとずっと泣き続けていたのだ。
なぜなら妻にとって『昼間の夢』は、ほとんどがやがて現実となってしまう、『予知の夢』だったのだから、妻はそのことを痛いほど身に染みて、承知していたのだから‥‥‥‥


妻が語り終えた『夢』の内容は、僕にとっても衝撃的だった。動悸(どうき)が激しくなっているのを、はっきりと自覚していた。
恐らく‥‥、それほど遠くない未来に、娘のソラの身に、予想だにしていない何かが、起こるのだ。

「‥‥ソラは‥」
僕は、泣き疲れてほとんど放心状態でカーペットの上に座り込んでいる妻に質問した。「夢の中であやとりをしていたソラは、今とは違う‥、少しは成長しているソラだったかい?」
「‥‥‥‥‥‥‥」妻は俯(うつむ)きぎみに一点を見つめ、しばらくの間黙り込んでいたが、やがて首を小さく横に振って言った。「今と変わらない‥‥、同(おんな)じソラだった‥‥‥」
その答えを聞いて、今度は僕が黙った。妻の見た『夢の暗示』が現実のものとなるのは、『夢』によってまちまちではあったが、すぐに『これだ これだったのだ』と気づかされるものもあった。妻の見た『夢の中のソラ』が、今と変わらないソラだったのなら‥‥、現実のソラの身に何かが起こってしまうのは、『近い』のかも知れない‥‥‥‥‥

居間のローテーブルの脇、ソファーにも腰かけず、妻と僕の二人はカーペットの上に直(じか)に座り込んだまま、ただ黙っていた。ただ黙って、僕はあらゆる不吉な事態に、考えを巡らせていた。
夢の中、ソラが『赤いあやとり紐に包まれて消えていく』というのは、いったい何を意味しているのか?そしてそれはいつ、娘の身に起こるのか?『終わる』と言う事はもしかしたら本当に‥‥‥‥

どれくらいの時間が経過していたのかは分からない。突然、家に備えてある電話機が鳴った。
僕は思考を遮(さえぎ)られ、妻は瞬(まばた)きを二つして我に返った。
鳴り出した電話はどうしたわけか三回のコールで途切れ、時を経ずして今度は僕の携えているスマートフォンが鳴り出した。きっと同じ人物が掛けている。たぶん、最初家電(いえでん)に掛けたが、この時間には誰も出ないことを思い出し、すぐに僕のスマホに掛け直したのだ。我が家の事情を多少なりとも承知ている人物が、慌てて僕たちに何事かを伝えようとしている‥と、僕は直感的にそう思った。

果たしてその連絡は、やはりソラがお世話になっている保育所からのものだった。
ソラが何の前触れも無く突然意識を失い、病院に救急搬送されたと言うのだ。僕と妻は目を見張り、互いを見つめ合った。

それが始まりで‥‥、ソラの命が『終わる』まで10ヶ月も‥‥無かった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (181)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十六

ソラは、赤い紐が複雑に指に絡んだ状態の両手を前に差し出したまま、酷く悲しい目をして妻を見ていた。それは、『しばらく楽しんだ遊びの終わり』を惜しんでいるだけにしては、余りにも不自然な表情だった。

「ソラったら‥‥、そんなに悲しそうにしないで。母さん頑張ってみるから、あと少しだけ時間をちょうだいな」慌てた妻は、手を合わせながら懇願(こんがん)した。
その『夢の中』での妻は、そんなソラの過剰(かじょう)な反応を、幼い娘にありがちな癇癪(かんしゃく)の一つだと考えていて、どうにか宥(なだ)められると思っていたそうだ。だが、妻はそれが大きな思い違いだったと、すぐに知る。突然、ソラの両手の指に絡んだままになっている赤い紐が、まるでそれ自体生きてでもいるみたいに、ゆらゆらと揺れ、もぞもぞと動き始めたのだ。
「えっ! 何??」どうやったらソラの手から上手(うま)く紐を取れるだろうと、あれこれ考えていた妻は、我が目を疑った。

モソモソモソソ- ゾゾゾゾゾォォ--

ソラの差し出したままの両手全体が、あっという間に真っ赤に染まっていった。赤い紐が見る見る増殖し、何重にも巻きついて、ソラの手と指を寸分(すんぶん)の隙もなく埋めつくしたのだ。それはまるで、ソラが赤い紐で拘束され、両手の一切の自由を奪われたかの様に見えた。だがしかし、変容はそれだけで止(とど)まらなかった。赤い紐はソラの手をあぶれ、彼女の腕にまで伸びていき、物凄い勢いで巻きつき出したのだ。それが、ソラの前腕から上腕、肩まで達するのに、余計な時間はかからなかった。
「何? なに? 何? 何なの???」妻は慌てふためいた。気が動転してしまい、目の前で繰り広げられている事態に、なす術(すべ)もなかった。
赤い紐の増殖は止まっていない。ソファーに座っているソラの、胸、腹を覆い、腰、下腹部お尻から、両方の太股(ふともも)へと下がって、膝から踝(くるぶし)まで到達し、踵(かかと)から足指先を目指して、覆い尽くそうとしていた。
頭の方はというと、ソラがまるで真っ赤なマフラーを巻いているみたいに、紐が首から顎までをすでに覆っていて、そこからは、赤い色をした特別の根をもった植物が、その根をまばらな放射状に張り巡らしていく様に、ソラの顔面や髪の毛に向かって広がっていこうとしていた。
その時にはもう、ソラは悲しい表情をしてはいなかった。涙がこぼれ落ちた後の目を薄めに閉じ、徐々に意識が遠のいていく、これから眠りに落ちて行こうとしている穏やかな顔だった。

「ソラっ? ソラ? ソラ?‥ ソラ‥‥‥」妻は声をかけた。声をかけることしか、出来なかった。
赤い紐が、ソラの顔を、覆い尽くす直前‥‥‥‥ ソラは、すっかり目を閉じていた。
ソラが訴えるみたいに何回も口にしていた‥『終わる』の本当の意味が、わかった気がした。

すっかりソラの全身を包み込んだ赤い紐は、やがて空気に溶け込む様にゆっくり、ゆっくりと消えていき‥‥ 妻の目の前から、ソラをどこかへ連れ去った‥‥‥‥

次回へ続く