悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (179)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十四

ソラは‥‥その朝もベッドにいて、上半身を楽な姿勢に起こして、春の日差しを和らげているレースの隙間から、窓の外を見ていた。
するとそこから見下ろせる住宅街の道路を、元気な声を上げながら、三人の小学生が連れ立って歩いて行くのが見えた。いつもの登校風景とは違って、彼ら全員がランドセルの代わりにカラフルで身軽なリュックを背負っていて、どうやら今日は、新学期早々の野外活動の日であるらしかった。
「えんそく‥‥ いくのかなぁ?」ソラが、眩(まぶ)しいものを見ているみたいな目をして、ぼそりと言った。
「そうみたいね。お天気で、良かったわね‥‥」ベッドの傍らで椅子に腰かけ、ソラを見守っていた妻が、さり気ないそよ風の様に返した。
ソラはその小学生たちを、ただ黙って目で追いかけていたが、彼らが視界から完全に消えてしまうと伏し目がちになり、いかにも詰まらなさそうにため息を一つついた。「‥‥ソラもえんそく、いきたいな‥‥‥」

「行けるさ! これから何度でも‥‥‥」
子供部屋の開けたままにしてあるドアの前で足を止め、さっきからこっそりと娘の様子を窺(うかが)っていた僕だったが、思わず声を掛けてしまった。
ソラが見た。妻も僕を見て、「あら‥、いつからそこに居たのよ?」と、呆(あき)れ顔をした。

「いつ? いついけるの?」ソラが聞いた。
「病気を治して元気になって‥‥小学生になったら、毎年毎年行けるじゃないか。中学生になっても、高校生になったって行けるんだぞ」そう答えながら僕は、僕の表情が、ソラの目にキラキラ輝いて映る事を期待して、自分の目と口元に精一杯の演技をさせてみた。

「‥‥‥‥‥‥‥‥」ソラはしばらくの間、じっと僕を見ていた。そして、「そうだね!」と急に納得したみたいにニッコリ微笑んだ。
僕は、ソラも演技をしている‥‥と思った。僕は自分の娘が、幼いながらも鋭い感受性を持ち合わせている事を常々(つねづね)経験していた。僕が希望を込めて発した言葉は、結果的に、そんな年端(としは)も行かない子の気を遣わせてしまったのだと、酷く後悔した。
こんな時、助けを求めるみたいにいつも、妻の方に目を向けてしまう。彼女もそれを承知していて、目を向けた途端、「そうよ」と頷いてソラに微笑んでみせ、娘の頭に右手を伸ばして優しく撫(な)でた。
僕は、妻が、ソラの母親が、誰よりも深い悲しみを心の奥底に潜(ひそ)ませて今を過ごしていることを良く知っている。彼女は『夢』を見て時々、人の行く末を予見してしまう能力を持っていた。その能力は確かなもので、一見的外(まとはず)れな『夢』であっても、解釈の問題を解決できれば、ほとんどが的中していると言っても過言ではなかった。
僕は、『あの日』を忘れる事はできない。セナを保育所に送り届けた僕は、いつもならそのまま仕事場に直行するのだが、その日は、忘れ物をしているのに気がついて、一旦自宅に戻ることにした。時間を考えれば、妻は丁度すれ違いで、家を出て仕事に向かっている頃だった。僕は迷わず鍵を出し、玄関の扉を開けようとした。

その時 家の中から‥ 明らかに 妻の泣き声が‥ 心を軋(きし)ませるみたいな 啜(すす)り泣きの声が‥ 聞こえて来た‥‥‥‥‥

次回へ続く