悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (162)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十七

今‥、芝生広場は、静けさを取り戻している。
空は厚い雲に覆われているものの、何物かが潜んでいる気配はどこにも感じられない。
もっとも、本来ならばこの時間、子供たちの歓声がそこかしこから聞こえているのが正常なのだろうが‥‥‥‥‥


ぼくたちは、雑木林と芝生広場との境目の場所から動いていなかった。
葉子先生は草の上に俯(うつぶ)せに横になっていて、背中の傷の出血と痛みのせいか、身動きをしないでいる。容態は刻々悪くなっている様で、もう木に登るのは無理かも知れない。
傍らにはフタハとミドリが座り込んで、先生を見守り続けているが、もはやなす術(すべ)がないといった様子だ。
モリオは、リュックの中の新しいチョコレート(確か四種類目だったろうか‥)に手を出して、周りの誰にも分け与えることなく、一心に食べている。それを少し離れたとことからじっと見ている態(てい)のツジウラ ソノだったが、目の焦点は明らかにモリオに合っておらず、何か別のことで物思いに沈んでいるのが分かった‥‥‥‥‥‥

「待つしか‥無い‥‥‥というところか‥‥」と、ぼくは呟いた。
事ここに至って、おそらくみんなは、『助けが来る』のを期待している。警察と救急が駆けつけて来るのを待っているに違いないと思った。
葉子先生の話では、草口ミワが先生の携帯電話を使って、110番と119番に連絡しているのだ。
しかし、それが確かな事だったのかどうかがはっきりしない。草口ミワは途中で『ヒトデナシ』に襲われそうになり、携帯電話を投げ捨てたはずだ。しっかりと連絡が完了していたかどうかは疑わしい。それに『小学生の通報者』の言葉を、いたずらと判断した可能性だってある‥‥‥‥‥

ぼくは、自分のリュックを背負い直し、ゆっくりと立ち上がった。
葉子先生以外のみんなが、ぼくを見る。
「どこへ行くんだ?ヒカリ‥」チョコを摘まむ手を止め、モリオが問う。
「ちょっと、歩いて来る」
「大丈夫なの?『ヒトデナシ』はもう、現れない?」代表する様にフタハが意見した。
「大丈夫かどうかを‥確かめるのも含めて、いろいろ確かめてみたいんだ」
「‥‥‥‥‥‥‥」一同の顔にそろって、不安の表情が浮かぶ。葉子先生からの反応は全くなかった。疲れ果てて、本当に眠ってしまったのかも知れない。

「心配いらない。これでも人一倍(ひといちばい)用心深いんだ。面倒なことには巻き込まれない自信がある‥‥」ぼくはそう言い置いてみんなに背を向け、さっさと広場に向かって歩き出していった。


ぼくが向かったのは、そう遠い場所ではないのに、雑木林の方からはちょうど死角になって見えなくなっている、芝生広場の少し窪んで低くなっている一帯だ。結局みんなには話さなかったが、そこには芝生のあちらこちらを真っ赤な血に染めて、バラバラになった風太郎先生の無残な遺体が転がっている。他にも様々な物が散乱していて、確か風太郎先生のデイパックも落ちていたはずだ。
ぼくは背を向けて来たみんなの目線が届くうちは、その場所まで迂回(うかい)ぎみにわざとのんびりと歩いた。彼らに気取(けど)られて『そこ』が見つかりでもしたら、たちまちパニックを引き起こしてしまうのは目に見えている。
「まさに‥ 地獄絵図だったからな‥‥」と、独り言を言ったが‥‥‥、その声が震えていたのが自分でも判った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (161)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十六

最初に「木に登ろう‥」と言い出したのは、実は、背中に傷を負っている葉子先生だったそうだ。

それはもちろん、『ヒトデナシ』の突然の出現から取り敢(あ)えず身を守るためでもあったが、もう一つ、できるだけ高い所から芝生広場を見渡し、どこで何が起こっているのかを把握するという目的もあった。
それだけ芝生広場のあちらこちらから『子供の声色(こわいろ)を使った奇妙な声』が聞こえて来ていたし、いたる所で微かに『何かが蠢(うごめ)いている不可思議な気配』がしていた。
「今は‥‥下手に動かない方がいい」と、葉子先生は、傍らにいたフタハとミドリに言い聞かせた。「私達が今相手にしている『ヒトデナシ』は、もしかしたら本当に『人(ひと)ではないもの』なのかも知れない‥‥‥‥」


林の中の道を急いで戻り、やっとこさ雑木林を抜けて芝生広場に足を踏み出そうとしたモリオとツジウラ ソノの二人であったが、突然どこからともなく聞こえて来た囁(ささや)き声に、思わず背筋を凍らせた。
「止まって‥‥ 行っては ダメ‥‥‥」

「なッ‥何だ?」顔を強張らせて辺りを見回すモリオ。ツジウラ ソノは警戒して、その場に身構えている。

「ここ‥ ここよ‥‥」と囁く声は続けた。

「どこだ???」ふたりして、首を巡らす‥‥‥‥

「あっ!あそこ!」ツジウラ ソノが、たった今後にして来たばかりの背後の雑木林、その中の一本のクヌギの木を指差した。振り向いてモリオも見る。仰ぎ見る。
大きなクヌギの木の上である。茂らせた葉を搔き分けて、人の顔が覗いていた。
「葉子先生!!」ふたりは叫んだ。
木の上にいた葉子先生は人差し指を唇に当て、モリオとツジウラ ソノに大声を出さない様にサインを送って来た。葉と葉の間からフタハとミドリも顔を出し、ふたりに戻って来いと手招きしていた。


「葉子先生の説明で木の上にいた理由が分かって、その後私たちも木に登って隠れたの‥‥‥」ツジウラ ソノが言った。
「そうして広場の様子をそこからずうっと見てて‥‥、だいぶたってからだったな、おまえがひょっこり現れたのは。こっちに向かって歩いて来るのが見えたってわけだよ‥‥」と、最後にモリオがぼくの顔を見ながらそう言って、『ぼくが芝生広場から離れていた間の出来事』をみんなして語り終えたのだった。
ぼくは、自分だけが知っている情報と相(あい)まって、改めて『ヒトデナシ』の得体の知れなさを感じ取り、それゆえに生じる事態の深刻さを‥‥‥思った。

次回へ続く