悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (150)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十五

当時のお年寄りたちがなぜ、ここハルサキ山を『腹裂き山』と呼んでいたのか‥‥‥‥‥

力のない静かな声で葉子先生は話しを続け、ぼくたちは固唾(かたず)を吞んでその話に耳を傾けていた。


「それは、もっとずっと以前の‥‥教頭先生はまだこの世に生まれていないし、お年寄りたちですらみんな幼なかった頃の、おそらく『明治』と呼ばれていた時代に起きた出来事が原因らしくて‥‥、彼らがその出来事を忘れられずにいつまでも記憶に留めていたせいだと‥‥教頭先生はおっしゃっていたわ。
ハルサキ山には四十人足らずの小さな集落があって、その住人がひと晩の内に一人残らず、老いも若きも幼子(おさなご)も、全員が全員、腹部を切り裂かれて死んでいたそうよ」
決して聞き流せるほどの他愛もない話でないことは覚悟していたが、ぼくはあまりの内容に顔をしかめ、隣にいて思わずのけ反ったモリオと二人顔を見合わせていた。ツジウラ ソノも、ミドリもフタハも、凍りついたみたいに固まってしまった。
「事件よね。大変な事件。今だったら大騒ぎになって、すごい報道になっていたでしょう。警察は大掛かりな捜査をして、そんな酷いことをした犯人と、そんな酷いことをした理由を、必ず突き止めようとしたでしょう」
「‥そう‥‥しなかったんですか?」ミドリが擦(かす)れ気味の声で質問した。
「教頭先生がお年寄りたちから聞かされた話では、出来たばかりの当時の警察が動くには動いたらしいけど、時代が変わったばかりの世の中はまだまだきちんとしてなくて、争いやら反目やらのいろんなことがあったし、訳の分からない迷信も根強く残っていて、人をしり込みさせて有耶無耶(うやむや)の内に置き去りにされる事案もあったんですって‥‥」
「だったらその事件、解決しなかったんですか?」葉子先生の一番近くにいるフタハが問うた。
「みたいね‥‥。事件はまったくの未解決で、犯人も捕まらなかったらしい。だからこそ余計、近隣の人たちの間では様々なことが取り沙汰(とりざた)されて、『腹を裂かれた全部の死体からは肝(きも)が抜かれていて、恐らく肝を取るためだけの為に全員が殺されたのだ。犯行は血も涙もないヒトデナシの仕業(しわざ)に違いない』などと言う噂がまことしやかに流れ、ハルサキ山は『腹裂き山』と陰で呼ばれるようになっていた。きっとそれが語り継がれていって、幼かった教頭先生の耳にも届いたわけね。教頭先生は、幼い頃に自分を心底怯えさせた『腹裂き山のヒトデナシ』の噂が、大きくなっても忘れられずにいて、大学に進んだ頃には地元の歴史が記されている文献をあちこち当たって、詳しい事件の記述がないか探し回ったらしい。でも結局、発見できなかった。詳しい記述どころか、その事件に該当する一切の記録が‥‥‥‥」

聞いていた全員が沈黙した。子供相手にかみ砕いた表現を選択する余裕が今の葉子先生にはなかったのかもしれない、ぼくはともかく、他の子供達には彼女の語る言葉は少々難しかったはずだが、彼らは精一杯集中することでそれをカバーし、理解していた。それぞれが物思いに沈んでいたのだ。

「だったら、だったら‥‥事件が全部デタラメだった可能性だって、あるわけだ‥」モリオが沈黙を破る様に指摘した。

「‥‥そうね‥」少し間を置いてから、葉子先生は答えた。
「そうだと‥良かったんだけど‥‥‥‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (149)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十四

ツジウラ ソノが『感じたまま』だと言った『ヒトデナシ』のイメージは、突拍子(とっぴょうし)もなく非現実的で、分かり易いのか分かり難いのかも判らなかった。
だがぼくは、そんな彼女の感性から目を背けようとは思わなかった。
それはたぶん、水崎先生の携帯電話を茂みの中で一緒に探した時、彼女の的確なアドバイスに関心させられた経験があったからだろうし、彼女のことばに耳を傾けているとなぜかしら『幼いソラ』とたわいもない会話を交わしていた過去のひと時が思い出されてならなかったから、かも知れない‥‥‥‥‥


「何かで素性を隠そうと、していたのかな?例えば、すっぽりと全身を覆う黒っぽいものを被(かぶ)っていたとか?」ぼくは質問した。
「そういうのでは絶対に‥なかったと思う」ツジウラ ソノは遠くを見るみたいに目を細め、口を固く結んでしまった。

「もしかしたら、人間ではないのかも知れない‥わね。だから『ヒトデナシ』と呼ばれていたのかも知れない‥‥」突然、囁(ささや)く様な弱々しい声が聞こえて来た。声の主は、目を閉じて草の上にうつ伏せに横たわっている葉子先生だった。当然さっきからのぼくたちの会話を聞いていたのだ。
「人間‥ではないから、『人で無し』ですか。本当にそのまんま、文字通りだ」ぼくは葉子先生の方に身を乗り出す、そしてずっと思っていた事を皮肉交じりに聞いてみた。「でも、教頭先生がそいつに襲われた時『ヒトデナシだ。ヒトデナシが出た』て叫んだのって、その場にそぐわない奇妙な反応だと思いませんか?」

「‥‥‥そうね」葉子先生は目を閉じたまま、静かに言った。「教頭先生はきっと、小さい頃からずっと『ヒトデナシ』を恐れていたのよ」

「小さいころから?」「それって、どういうことですか?」葉子先生の傍らにいたフタハとミドリが、ぼくの代わりに質問してくれた。

背中の傷の痛みを堪(こら)えていたのか、間を置く様な少しの沈黙の後、「今度の遠足がこのハルサキ山に決まった時、教頭先生が聞かせて下さったお話なんだけど‥‥」そう前置きして、葉子先生は語り始めた。
「教頭先生が幼かった頃だから‥‥随分と昔ね。近隣のお年寄りたちはみんながみんな、ここを別の名で呼んでいたと言うの」
「別の名?」ぼくたち全員が声を揃えた。
「そう‥、ハラサキ山。腹を裂くと書いて『腹裂き山』て‥‥」
「なっ、何だそれ!」モリオが、顔をしかめて言った。しかし、モリオよりももっと顔をしかめ、驚いた顔をしていたのはこのぼくだった。
ぼくは、芝生広場に戻る前に巨大迷路の廃墟で目撃してしまったあの光景を、細部まで鮮明に思い返していたのだ。ここにいるみんなにはまだ報告していない、見事に腹を切り裂かれ、まるで赤いバラの花弁の様に内臓をはみ出させて外壁(そとかべ)に逆さまに吊るされていた水崎先生と、そして教頭先生本人の変わり果てた姿を‥‥‥‥‥‥

次回へ続く