悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (91)

第三夜〇流星群の夜 その五

僕が‥‥、テレビや新聞の報道やSNSで騒がれていた「謎の病による死」を目の当たり(まのあたり)にしたのは、籍を置く大学、講義終了直後の大教室での事だった。

いつも通りに、中央の教壇から程良く位置をとった長机に腰を据えてノートを広げ、一般教養の講義に耳を傾けていた僕だったが、その日は少し見える景色が違っていた。
この講義には決まって、教壇のすぐ前の最前列の机に陣取る一人の男子学生がいた。僕が大教室に到着した時には大抵、彼は既にその定位置に着いていて、準備をして講義が始まるのを待っていた。小柄で度の強い眼鏡をかけ、いつもパーカーを着ている彼だった。ひどく真面目で熱心な学生に見えた。講義を受けている間中、彼の後ろにいる僕や他の学生は、彼の一挙手一投足が必ず視界に入る。先生(講師)の言葉や黒板を埋めていく文字に反応して、首を細かに上下させ、ノートに向かって熱心に手を動かす様子は、ひどく真面目に見え、講義の終了後に出席カードを出す目的だけの為に席に着いて時間をつぶしている学生もちらほらいると言うのに、まったく頭が下がる思いがしたものだった。
その日、やはり彼もいつも通りに講義に臨んだのだろう。だが、後ろの席から見える彼の頭やパーカーを着た背中は、長い講義の間一度も動くことはなかった。右手にペンを握り、左手は机の上に置いてはいたが、やや前屈(まえかが)みの姿勢で俯いたまま、微動だにしなかったのだ。
僕は、彼が珍しく居眠りをしているのだろうと思っていた。しかし講義終了のベルが鳴って、みんなが教壇脇の机に置いてある箱に出席カードを入れる為に立ち上がっても、彼だけは立ち上がらなかった。やはり同じ姿勢のまま座っていた。さすがに先生も不審に思ったのか(たぶん講義をしている時からそう思っていただろうが‥)、目線を下げて彼に一言二言声を掛けた。

「たっ‥たいへんだ!」
教室を出ようとしていた僕や他のみんなが、先生のそんな慌てる声を聴いて一斉に振り向いた。先生は青い顔をしてバタバタと走り出し、僕達を追い越して教室を出て行った。

そこからキャンパス内はちょっとした騒ぎになった。
救急車が到着し、物々しく防護服を着こんだ人達が彼をストレッチャーに乗せ運び出していった。「皆さん、離れて下さい」と言われながらも遠巻きに見ていた僕は、彼が席に着いていた時と同じ姿勢の状態のままストレッチャーに乗っかっている事に気がついた。彼を包んでいる不透明のビニールシートが、奇妙な形にかさ張り、盛り上がっていたからだ。彼がすでに死んでいたかどうかは分からなかったが、石の様に硬くなっていたのは確かだった。
全学生の携帯電話 スマホに一斉送信があった。教室で起こった事の大まかな説明と、感染が疑われている事例である為の今後の大学側の対処方針などが送られてきた内容だった。その日の予定はすべて中止となり、翌日からしばらくの間大学は閉鎖、学生は自宅待機と言う事態になった。。同じ教室で受講していた学生には特に、今後の体調の経過報告が義務づけられた。

彼が、今世界を騒がせている「謎の病」によって死亡した事実を、正式な報道で僕は数時間後に知った。その時僕の脳裏に浮かんだのは、教室で彼のいた机の脇を通り過ぎた瞬間に目に入った「シャープペンシルをしっかりと握り締めていた彼の右手」だった。
彼の遺体は何処か特別な施設へと収容されただろうが‥‥、彼の右手は今もまだ‥シャープペンシルを握ったままでいるのだろうか‥‥‥‥‥‥
そんな事を僕はぼんやりと考えていた。

次回へ続く

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