悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (98)

第三夜〇流星群の夜 その十二

彼女の父親が残した謎のメモ書きには、判読できるいくつかの言葉があった。
その意味を理解する事は到底できかねたが、『差し伸べられた‥‥神の手?』と言う一文は、まるで山びこの残響の様に僕の脳裏に残った‥‥‥‥‥‥‥

これまでと、これからの人類の運命に『神の如き‥何らかの意思が介在している』かどうかはともかくとして‥‥、世界中に拡散する感染症とは考えにくい、全くの無作為としか思えない状況で次々と石の様に変り果てていく現象は、世界を着実に変貌させていった。
いつ、誰が発症するか予想もつかないこの謎の病は、人間が関わっているものへの信頼性を根こそぎ奪い取った。運転、操縦操舵、維持修正、継続監視などなど、人間が健康な状態でしかまっとうできない作業は、すべてその方法を考え直す必要に迫られた。例えば航空機の操縦。自動で行えないマニュアル操作の為には、操縦士は予備の人員を含め三名以上を搭乗させ、操縦中の一人が発症して硬くなり始めた時点で予備の操縦士が交代できる様、操縦の妨げになる可能性のある『発症した人間』を速やかに撤去し運搬する作業員の随行(ずいこう)も義務づけられた。
結果として、日常の物流やインフラの維持にも、膨大なコストがかかり、経済活動は見る見るうちに停滞していった。大量の輸出入ができなくなり、食料や日用品、あらゆる製品の加工原料が届かなくなっていった。幾多の関連企業が立ち行かなくなり、倒産していった。市場から徐々に商品が消えていき、物価が急騰した。
世界のすべての国々は、それぞれ自国の事情に即した対応をするしか方法はなかった。

日本は、ずっと輸入に依存して来た。自給率の低い物は数え上げるときりがなかった。
小麦が調達できなくなった。原油が届かなくなった。
「輸入先の国々が、まずは自国を守るためにと輸出を制限し、鎖国の様な事を始めてしまった」政府の人間がそう言って頭を抱えた。
日本政府はあらゆる事態への対応を迫られ、決断していかなければならなかった。謎の病がいつ収束するのか予想がつかない中では、楽観論は皆無だった。優先させたのは、継続して供給していける食料を確保していく事と、不足するものの代替(だいたい)品を見い出していく事。もちろん国内での調達が大前提であり、それは文字通り自給自足を意味していた。
インフラの維持にも多額の予算がさかれた。備蓄燃料の使用を前提で、エネルギーの使用を限定していき、自動車は、ガソリン車電気車問わず使用を制限した。情報通信でも現状維持は難しく、限定的な継続となった。
日本中の夜は電気の使用制限によって暗くなり、それに伴って夜間外出も許可制になった。

当たり前だった日常生活が徐々に奪われていく‥‥。国民には、計り知れないほどの不満があったはずだ。しかし、たいした反対運動や暴動などは起きなかった。それはやはり、謎の病への恐怖が他の感情を上回っていたからだろう。
謎の病が確認されてから一年余り‥‥‥。東京都、関東近県だけでその犠牲者とされる数は、3,000万人を超えていた。実際‥‥人が減っていく分、予測したほどの食料不足は起きなかった‥‥‥‥‥‥‥

次回へ続く

創作雑記 (5)

今回は、悪夢十夜 第三夜「流星群の夜」をお休みして、作中で触れた『三大流星群』について少しだけ書いてみたいと思います。

私は格別の天文ファンではありませんが、田舎育ちのせいで小学生の頃から綺麗な星空を見続けてきて、いつの間にか星を観るのが好きになっていました。
日食、月食、彗星、火星大接近等々、イベントには事欠かない天文現象ですが、その中でも流星群は一年を通して何度か見る機会もあり、数多くの流星を目撃できた時の劇的とも言える体験には心躍るものがあります。
三大流星群と呼ばれる『しぶんぎ座流星群』『ペルセウス座流星群』『ふたご座流星』は出現する流星が多く、天体観望には打ってつけです。
因みに各流星群の呼称は、その『放射点』にある天球上の星座の名で、その星座を構成する星々が関係する流星が降ってくるわけではありません。それぞれの流星群には『母天体』と呼ばれる彗星や小惑星(いずれも太陽を中心とする周回軌道を持つ太陽系の一員。彗星などは長い周期の極端な楕円軌道をとって太陽に接近し、太陽を回ってはまた遠ざかって行く事を繰り返している)があって、その活動によって放出されたダストが地球の大気に飛び込んで流星となるのです。ダストが放出され残されている母天体の軌道を、一年の公転周期を持つ地球が定期的に通過するわけですから、毎年同じ時期に各流星群は出現します。
しぶんぎ座流星群は12月28日から1月12日に期間に出現し、最も多い数の流星が期待できる『極大』は1月4日頃です。ペルセウス座流星群は7月17日から8月24日で、極大はお盆の8月13日頃。ふたご座流星は12月4日から12月17日で、極大は12月14日頃です。

ここからは蛇足。
天体観望に関して自分の人生を振り返って見ると、絶好のコンディションに恵まれた中、ゆっくりと星空を眺める事ができる機会など、そう何度も訪れるものではありません。仕事が休みでたっぷりと時間があるのに天候に恵まれないとか、晴れて雲がなくても満月の光の支配に邪魔されるとかです。それにそもそも、長くただじっと星空を観ていられる心を持っていられるかどうかで、歳を取れば取るほど心の余裕みたいなものが無くなっている気がします。
こんな事を考えていると私は決まって、高校生の時に読んだH.G.ウエルズの短編を思い出します。題名は忘れてしまいましたが『扉』の出てくる話で、塀かなんかに突然『扉』があると言うか、見つけるのです。主人公は幼い頃一度その扉をくぐった事があって、確か花の咲き乱れる庭の様な場所だったかな?それと誰かいたかな?(随分とうろ覚えで申し訳ありません。今確かめる術が無い‥‥)はっきり思い出せないですがそんな空間に迷い込み、至福の時を過ごした経験が忘れられないでいます。もう一度そこへ行きたいと願って『扉』を探すのですが、見つけられないで時が経っていきます。そして、その『扉』を見かける日が来ます。それも違う時と場所で複数回。しかしそのタイミングは決まって、『主人公の人生にとっての重要な目的』を果たす為に急いでいる時で、寄り道のできない状況なのでした。つまりは選択なのです。着実な人生を歩むか、それを捨てて『扉』をくぐり、ふたたび至福の時を味わうか‥‥。着実な人生を選択した主人公は歳を取ってから、『扉』をくぐらなかった事を後悔します。そしてその後悔が主人公の行動を、余りにも切な過ぎる悲劇(ラスト)へと導いていくのです‥‥‥‥‥‥‥

絶好の星空をゆっくり眺めていられると言うのは、もはや何かを捨ててしまわないと実現できないほど貴重な時間なのかも知れない‥‥‥。最近はそんな事を考えてしまう訳です。