悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (7)

序〇糞(ふん) その七
遠のいていた意識が、水面に向かってゆっくりと浮上するように焦点を結び始めた。

男は最初に、髪をなぶる風を感じた。
見ると、何処までも続く広大な草原を、風が渡って行く。空に日は無く、鉛色の重い雲が立ち込め、近づく嵐を予感させた。
男は、草原を左右に分ける赤土の一本道に立っていて、その土の赤がまるで血の色をしていたので、ここは恐らく日本ではないと思った。

もともとつま先が向いていた方向に歩を進めようとすると、何処からともなく声が聞こえた。いや、声には違いないが、どうも歌っている。途切れ途切れではあるが風に乗って、女性の歌声が確かに聞こえてくる。
どうやら遠くの歌声を、風が運んで来たらしい。そう考えて風上を判じてみると、今歩いて行こうとした正反対の方向。男は振り向き、首を突き出すようにして耳を澄ませてみた。

やはり聞こえる。血の色の道が真っすぐに続いて行く遥か前方。徐々に始まる勾配を登り詰めたその先に小高い丘が見えた。
男は歌声の正体を確かめたくなって、風上に向かって歩き始めた。
と‥・奇妙な感覚に囚われる。自分はそもそも、この先にある何かから身を遠ざけようとして道を下っていたのではあるまいか‥‥‥。

この ち は い か たみ ぃ
この ちぃは いつか たみちぃ
このみちぃは いつかきたみちぃ
丘に近づくにつれ、歌声が明瞭に聞き取れるようになり、男の記憶にもある懐かしい童謡の歌詞を紡いだ。

この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの 花が咲いてる

あの丘は いつか見た丘
ああ そうだよ
ほら白い 時計台だよ

この道は いつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと 馬車で行ったよ

あの雲は いつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の 枝も垂れてる

歌声は続いている。
男が漸く、丘を見上げる位置まで辿り着いた時、その頂上に、歌声の主らしき人影を認めた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (6)

序〇糞(ふん) その六
黒い欠片を乗せた手をさらに前へ差し出して、少年は言った。
「何も汚いもんじゃあねえ。それにこいつは無味無臭だ‥‥」

男に糞を飲ませて後で笑いものにしようと、少年が企んでいるとは思えない。
つまらない猜疑心(さいぎしん)に勝っていたのは、他人の悪夢が覗けるかも知れないという極めて魅力的な誘惑、強い好奇心だった。男はその虜(とりこ)となっていた。

手を伸ばす男・・・。微かに震える指で、少年の手のひらから黒い欠片を摘まみ上げた。
「‥‥まさか、こんなものが‥‥‥」
「悪夢の中味までは俺にも判らねえ。開けてびっくり玉手箱ってやつだ」

こうして眺めているより、さっさと飲んでしまえば全てははっきりすることだ。
男は腹を決めた。

男の決意を見透かしたようなタイミングで、少年が声をかける。
「そこいらに横になりな。体の力をすっかり抜いて試すといい‥」
男は従った。足元の草むらに座り込み足を伸ばした。少年はその様子をどこか楽し気に見ている。
男は、いよいよ欠片を口に含み、残る上半身もゆっくりと草の上に預けていった。そして中空に視線をさまよわせる僅かの間を置いてから、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。

「さて、お立ち会い!」
少年の、そんな囃子言葉が聞こえた。
次に耳に届いたのは、意識が遠のいていく変調の‥‥‥音にならない音‥‥だった。

次回へ続く