悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (195)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十

「本当に‥‥ ぼくがそんな憎しみのこもった言葉を‥口にしていたのか‥‥‥?」

まったく身に覚えのないぼくがそう問い質すと、高木セナはまるでぼくを断罪するように、迷うことなく大きく首を縦に動かした。
ぼくは言葉を失い、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
高木セナの言うことが本当なら、ぼくは自分自身をどこかで制御しきれていないことになる。それはまるで、自分の中にもう一人の人格が存在していて、そいつが、『隙を見せたら入れ代わってやろう』とぼくの様子を虎視眈々(こしたんたん)と窺(うかが)いながらチャンスを狙っている‥‥みたいな緊迫感を覚えずにはいられなかった。
そしてさらには、頭の中にある『ソラの空白』以外の、例の『何もかもがギュウギュウ詰めにされている領域』が、いつからかすでにザワザワと騒(ざわ)めき出していて、ぼくはその圧力とも言えるエネルギーをはっきりと自覚した。

「行って、ヒカリくん! わたしのことは放っておいて、はやくツジウラさんを追いかけて!」時を無駄にするぼくを見かねて、高木セナが叫んだ。
「そっ、そんなことできない」ぼくはすぐに拒否した。「ここは『ヒトデナシ』という魔物のテリトリーなんだ。予想もしないことが同時にあちこちで起こっていた可能性だってある。ぼくは君から目を離したくないんだ」
ぼくはどうにか正気に返った目で高木セナを見つめ、彼女もまた、ぼくを見つめ返した。

「‥だいじょうぶ。わたしはここの魔物とは‥取引済みだもの」高木セナがぼそりと言った。
「な!何だって!??」予想だにしない彼女の言葉に、ぼくは仰天してしまった。
「ううん? そんな気がするだけかもしれないけど‥‥、あの時そう感じたの」

高木セナが話し出したのはやはり、芝生広場に来る途中の林の中の道で、彼女が腕に傷を負った時のことだった。
「‥あの時、道の右端を歩いてて、背の高い草の茂みの横を通ってたら、大きな虫が飛び出て来たの。えっと思ってよけようとしたら、それが、ナイフみたいなのを持った人間の手に見えて‥‥‥、気がついたら右腕に赤いスジが一本引かれてた‥」
「引かれてたって‥ 切られたんだろ?」
「うん、そうだけど‥、傷の深さは1ミリもなかったよ。血は出たけど、あんまり痛くなかった。ちょっとヒリヒリしただけ。あれはわざとそうしてったんだって、思った。まるでわたしの腕に、何かの『しるし』をつけてったみたいだと思った」
「しるし‥‥ か」彼女の観察力と感受性は独特だったが、ぼくはそれを侮(あなど)ったことなど一度もなかった。むしろそういうものが、彼女の持つ予知の能力を呼び起こす力の源(みなもと)なのかも知れないと考えていた。
「あの時の『手』が、ヒカリくんの言う『ヒトデナシ』のものだったのなら、わたしが一番最初に『ヒトデナシ』に出会っていたことになる。でもそれは、わたしを襲って本気で切りつけようとしたんじゃなくて‥‥‥、わたしに、何かを始めようとする『合図』を送ってきたんだと思う」
「‥‥なるほど。‥あるいは『警告』‥の意味かも‥知れない‥‥‥」

「だから、わたしにはわかるの。ここの魔物には最初から、そしてこれからも、わたしを襲ったり、殺したりするつもりはないって」高木セナはきっぱりと言った。
「だからわたしを信じて、ヒカリくん。わたしは一人でだいじょうぶ。ヒカリくんは!すぐにツジウラさんのところに行って!!」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (194)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十九

ぼくは気が急(せ)いていた。高木セナの手を引いていながらも、可能な限り速く走ろうとした。
駐車場の出口に到達し、そこからやや傾斜になって下り始める『舗装道路』に入った。
その傾斜の途中、高木セナの足が縺(もつ)れ、危うく転倒しそうになった。ぼくは「あっ」と叫んで間一髪、体全体を使って支えることで何とか彼女の転倒を阻止したが、その時、それまで掴んで引いていた彼女の右腕を包むパーカーの長袖が捲(めく)れ上がり、貼ってあった大きな救急絆創膏が覗いた。

「あっ ごめん‥‥」
ぼくはすっかり忘れていた。高木セナが、右腕に怪我をしていたことを。
遠足の目的地、芝生広場に間もなく到着しようという林の中の道で、彼女は右腕の外側に切り傷を負い血を流していた。その場で葉子先生の応急処置を受けたが、それまでたくし上げていた袖を下ろして、手当のあとを隠していたのだ。
「ううんん、だいじょうぶ。もともと大した傷じゃあないから。ほとんど痛みもないし‥‥」そう言って高木セナは、支えていたぼくの体から身を起こし、離れた。「‥‥‥‥‥‥‥‥」そして彼女はそのまま、押し黙ってしまった。
慌てたぼくのせいで、危うく高木セナに怪我をさせるところだった。おまけにすでに傷を負っている右手右腕を、無神経にも強く握って引っ張っていたのだ。彼女を守ると心に決めていながら、何という情けなさだ。ぼくはその反省から、何の言葉も出て来なかった。
二人の間にほんのしばらく、沈黙の時間が流れた。

「行って!ヒカリくん! 急いでるんでしょ?」沈黙を破ったのは高木セナだった。「わたしは足手まといになるから、置いてっていい。自分の安全くらい、自分でどうにかするよ」
「どうにかするって、そんなこと言わないでくれ。ぼくは君を守りたい。守らなくちゃいけないんだ!」
「‥ヒ ヒカリくん‥‥‥」それまでぼくの視線から目を伏せていた高木セナが、顔をあげて真っすぐぼくを見た。彼女の両目に、特別な感情が宿るのがわかった。しかし、それは一瞬のことだったようだ。彼女はふたたび目を伏せてしまい、小声でこんなことを言った。

「さっき、急に走り出した時からのヒカリくん‥‥ 何だかとてもこわかった。わたしを引っぱって走ってる時も、わけがわからないこと‥小さく怒鳴るみたいに言ってて‥‥‥ 気味が悪かった」

「え?何だって?? ぼくが走りながら、何か怒鳴ってたって??!」ぼくは驚いていた。正直まったく、身に覚えのないことだったからだ。「ほ‥ 本当なのかい?」
高木セナがぼくを上目遣いに睨(にら)みつけた後、首を縦に大きく動かした。
「‥ぼくはいったい‥‥ どんなことを‥怒鳴ってたんだい?」ぼくはかなりショックを受けていたが、聞き出さずにはいられなかった。

高木セナはぼくの質問に答え、思い出しながら、一つ一つの意味を手探りでもするみたいに、ぼそりぼそりと、口に出していった。

「どこへ‥ つれていく ‥‥ツモリだ。 ムスメに‥‥ ムスメのカラダに‥メスはいれさせない。 キリキザムような‥マネは‥‥ ゼッタイ ゼッタイに‥‥ ゼッタイにさせない‥‥‥‥」

次回へ続く