悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (255)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十

「 ねえ‥。今、気がついたんだけど‥‥‥ 」

終わることの無い直線通路の前進を中断し、佇(たたず)んでいたぼくとセナ。
すっかり正気に戻ったという風な感じで、セナが口を開いた。
「 私達‥、この通路の奥の方から微(かす)かに『歌声』が聞こえて来たから、そこからは急ぐみたいに歩き出したのよね‥ 」
「 あ‥ ああ。そうだった‥ 」 ぼくは思い出した。確かにセナの言う通りだった。『歌声』‥、それも複数の声で歌われている『野ばら』が聞こえて来たのだ。
間違いない。間違いなくシューベルトの『野ばら』だった。歌っていたのは、ツジウラ ソノや合唱部の女子達だったのかも知れない。ぼくもセナもそれに引き寄せられる形で、目的の地点はきっとこの先の遠くない場所だと思い込み、二人して勇(いさ)んで足を速めて行ったのだ‥‥‥‥
「 そうよね。でも、その『歌声』がいつの間にか止(や)んでることにたった今、気がついたの 」
「 そっ! そうだね! ‥本当だ 」 ぼくも今更ながら、そのことに気がつかされた。

「 やっぱりあの『歌声』は、私達をいつまでも迷路の中で迷わせておく‥罠のひとつだったのかしら‥‥‥ 」
「 うむ‥‥‥‥‥ 」 ぼくは考え込んだ。
あの時‥、あの『歌声』に向かって歩き出した時点で‥、ぼくも確かに『これはもしかしたら罠かも知れない』と、不吉な想像を頭の中に過(よぎ)らせた。この巨大迷路廃墟が、『ヒトデナシ』と言う魔物のアジトだと決めつけ、ここで起こる事の全てに疑念を持っていたからだ。
だが、今は少し違っていた。否(いや)‥少しではなく、この巨大迷路廃墟に対する見方が、随分と変化していた。

この『気持ちの悪い世界』は、おまえのものだという事を忘れるな。

ぼくのもう一人の人格である『やつ』からの、アドバイスである。
そんな言葉を残して『やつ』が去ってから、今漸(ようや)くぼくは、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼(そしゃく)する機会を得ていた。
つまりあの時‥、『これは罠かも知れない』と疑ってしまった時点で、無意識に『望まない選択』をしてしまったのかも知れない。

「 この先は、こうなったらいいのに‥‥ 」と望んでみるんだ。とりあえず望んでみろ。

要するに‥‥、『この世界』で出くわした困難な局面において‥‥、言わば『ポジティブシンキング』こそが事態を打開する鍵となってくれる‥はずである‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (254)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百三十九

制裁‥‥‥
制裁て何だ? いったい‥何に対する制裁だ??

ぼくは飽く迄も常識的な客観性を持って、ああだこうだと自分とこの世界との関係性を考察し、これが適当だと判断して『制裁』という言葉を当て嵌(は)めて置きながら‥‥、ふと我に返り、その根拠らしきものが全く馬鹿げていると思った。なぜなら彼らは、『制裁』を受ける様な事は何もしていないではないか。
恐らく‥娘のソラを死なせてしまったぼくは、ソラが受診した少なからぬ数の病院・診療所の医師達が、結果として『何も示せなかったし、何の成果も上げられなかった』という事実に深く失望したのだ。しかしそれは、決して彼らの罪ではない。病因が特定できない病(やまい)に罹(かか)ってしまったソラが『運が無かった』のだ。ただそれだけのことなのだ‥‥‥‥
だが、ソラを失ったぼくと妻の人生が一変してしまったことは確かで、漠然と持ち続けていた現代医療への信頼感は消え失せ、併せて社会や人間に対する強い不信感が生まれた。そしてきっと‥‥その時から、ぼくの心は歪(ゆが)み始めたのだ。
ぼくの歪(ゆが)んだ心には、何時(いつ)しか『全く以って理不尽(りふじん)極(きわ)まりない』怒りと、それゆえに『全く謂(いわ)れの無い対象』へと向けられた復讐心が渦巻く場所となった。そしてその捌(は)け口として『この世界』が拵(こしら)えられ、ついにそれらが発露(はつろ)するに至ったのだ。

この世界に、それぞれの役を与えた彼らを配置し、この世界に昔から棲(す)むと言う『伝説の魔物』を召喚(しょうかん)し、自分の手を汚すこと無く彼らに残酷な制裁が加えられるよう‥仕向けた‥のだろう‥‥‥・

そんな‥、すでに着々と進行して行った様子のこれまでの『シナリオ』を頭に描いてみて‥‥、今回の全体としての『遠足のシナリオ』はそれだけでは不十分であることにも気がついた。
伝説の魔物が、はたして『ヒトデナシ』であったとして、『ヒトデナシ』がぼくの心の中から湧いて出たものではなく、もう一人のぼくの人格である『やつ」が言っていた通り、偶然『別の世界』からぼくが言葉通りに召喚してしまった未知の『異物』であったとしたら、それだけでもうこの先の展開は予測不可能な事態となる。
さらには、『ツジウラ ソノ』が『ソラ』であるとして‥‥、彼女が、自宅病床での『ぼくと交わした口約束』だけで、ぼくがこの遠足に招き入れたとも考えにくい‥‥‥

そう言った疑問のひとつひとつを‥枚挙(まいきょ)していけば暇(いとま)もない、ぼくが拵えたはずの『この気持ちの悪い世界』‥‥‥‥
「 ふう‥ 」とぼくは、深いため息をついた。そして、考え始めた。
その全ての疑問を解き明かすためにまずぼくがしなければならないのは、自分の歪んだ心をどうにか味方につけて、このどこまでも続く直線通路から脱出する方法を導き出すことだった。

次回へ続く