ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (57)

最終話「夕暮れ」 その十四
「やはり人間は・・簡単ではない・・・・」

小学六年生の私が「ジキル博士とハイド氏」を読んで、人間の内側に潜む願望や衝動の存在に薄々ながら気づかされた時、世の中への見方感じ方が変わったのは事実です。
幼少の頃は感情のおもむくままに泣いたり笑ったり、時には叫んだりしてまわりの大人達を困らせていたものが、大きくなるにつれてそれが出来なくなっていった事は実感しています。人と上手くやっていこうとか、少しでも自分を良く見せようという気持ちが働いて、「我慢する」という事を覚えていったのだと思います。
我慢して大人しくなる。「大人しい」という言葉は、読んで字のごとく大人らしくなる事なのです。

「我慢」は、時にはひどく骨の折れる事もありましたが、慣れていく事も分かってきました。そして何よりも確実に、後々の自分の利益に結びついていったのです。

この、人の「成長過程」とも呼ぶべき一連のものは、私が身を置いていた小学生の社会の中ではひどく個人差のある現象で、「随分大人びて見える」あるいは「かっこ良く感じる」同級生や上級生の言動に憧れ、手本にしたものでした。

しかし、実際はそう容易く人は収まりをつけて成長していけるわけではないのです。「我慢」は「抑圧」を生んでいきます。「抑圧」は、人がその社会性を保持していく為の「自我の防衛機制」。我慢によって締め出された感情は様々、おそらく本人しかこだわっていないようなすぐに忘れてしまいそうな些細な事に対するものであったとしても、意識下に押し留められ保持されます。
「ジキル博士とハイド氏」で使われた「薬」は、悪の人格を分離して顕在化させるものでしたが、言わば「抑圧」によって意識下に押しやられた願望や衝動を解放する薬であったわけです。

現実には存在しない「薬」が使われたような現象、「願望や衝動の解放」が実際に世の中のあちこちで起こっているのではないか・・・・
おぼろげながら私はそんな思いにとらわれ初めていました。

次回へ続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (56)

最終話「夕暮れ」 その十三
「・・・人間は・・簡単ではない」

道で出会った知り合いと満面の笑みで挨拶を交わし、振り返った瞬間、能面のような表情に戻る町のおばさん。
みんなが楽し気にしているところに入ってきて、一人一人の目を見てその様子をうかがいながら全てをぶち壊しにする行動をとる同級生。
なぜ自分がしかられているのかが理解できないでいる子供を前に、一方的に激昂(げきこう)し続ける小学校教師。

あかね書房「少年少女世界推理文学全集」で読んだ、スティブンソン作「ジキル博士とハイド氏」は、小学生だった私がすでに薄々気づき始めていた「人間の正体」とも言うべきものに肉薄する小説でした。

イギリスの作家スティブンソン(スティーヴンソン)は、子供向け冒険小説の傑作「宝島」の著者としても有名ですが、「ジキル博士とハイド氏」は、今ではその題名が多重人格(解離性同一性障害)の代名詞ともなっている氏のもう一つの代表作です。
私はこの小説で、初めて「二重人格」という言葉を知りました。
作中ジキル博士は、人間(博士自身)の中にある善と悪の人格を分離する薬を開発しようと試みます。出来上がったのは、悪の人格だけを切り離し、さらには姿さえも変容させてしまう不十分な薬。しかし悪の人格「ハイド」を手中にしたジキル博士は、世間での善良な紳士「ジキル」では叶えられない快楽への欲望を満たすため、薬を飲む事でハイド氏との二重生活を送るようになります。
やがて事件は起こるべくして起こり、この作品の謎解きの要素となっていくわけですが、悪の人格「ハイド氏」が暴走し始めて薬を介することなしに出現するようになり、ついには「ジキル博士」をおしのけ肉体を占領しようとする状況に至って話は幕を下ろします。

私が少年だった頃、幾多の不可解もしくは不条理に遭遇してきたわけですが、思い返すとそのほとんどが人間のなせるものであった事に気づかされます。
「ジキル博士とハイド氏」を読んで考えるようになったのは、人間の内面の世界。そこにあるものが単純に善と悪との葛藤だとは思いませんが、確かに複雑に絡まった何かが隠れ隠されていて、それが突然顔を覗かせたり、制御出来なくなって爆発したりする、恐ろしいのはこういう時の人間なのだとつくづく思いました。
さらに、自分もひとりの人間だと認識して考えを巡らせたのは自身の内面で、そこにあったのは、他人に知られまいとひた隠しにしている幾つかの感情らしきもの・・でした。

次回へ続く