悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (166)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十一

微(かす)かに‥‥音が聞こえた。
耳を澄ませると、どこか遠く‥‥‥ 空気を震わせて、明らかな旋律が奏でられている。
ぼくはスマホを手にしたまま、ゆっくりと立ち上がった。

過去の記憶を少しずつ修復していく様に、ぼくはその旋律をゆっくりとなぞっていった。そして、思い当たる曲を見つけた。
「グノシエンヌ 第1番‥‥」 それは、エリック・サティーのピアノ曲に間違いないと思った。


ぼくは高校を卒業して大学に進学した。都会の大学である。
目まぐるしい環境の変化にやっとこさ適応出来てきた初夏のある日、ぼくは書店の美術書フロアーで思いもよらぬ女性と、七年ぶりの再会を果たす。
すっかり成長した十九歳の高木セナが、本の棚に手を伸ばそうとしていたぼくのすぐ横に立っていたのだ。

偶然ではない‥と思った。彼女の微妙な目の輝きが、そしてどこか不自然な挙動が、それを物語っていた。
「‥‥ぼくとここで会うことを‥知っていたのかい?」 黙ったままこちらを見つめ続けている高木セナに、ぼくはいきなりの質問をした。彼女はコクリと頷いた。
「やはり‥‥例の『昼間の夢』を見たのかい?」 彼女は破顔(はがん)して、先ほどよりも大きく頷いた。その笑顔は、『手放しで自分を理解してくれる人間に、久しぶりに巡り会えた』という喜びを表現しているみたいに、ぼくには思えた。ぼくは無性に彼女が愛しくなり、自然に歩み寄っていた。

高木セナも、高校卒業後この都会に出て、美術系の学校に通っていた。
その再会を機に、ぼくたちは頻繫に会うようになったのだが、彼女が携帯していたスマホの着信音が、『グノシエンヌ』だったのだ。
ぼくにはどこか陰鬱(いんうつ)に聞こえるこの曲を彼女は気に入っていて、機種が何回改まろうが、今の今まで、決して変えることはなかった。彼女に言わせるとこの曲は、折に触れ、彼女にインスピレーションを与えてくれる『魔法の旋律』なのだそうだ‥‥‥‥‥‥


ぼくは動き出していた。『グノシエンヌ』が流れて来る方に向かって、芝生の上を移動した。呼び出しが途切れる毎(ごと)にリダイヤルして、耳を澄ませ直した。
暫くしてそれが、芝生広場北側の駐車場の方から流れて来ている気がした。当然、足早になる。駐車場に近づけば近づくほど、『グノシエンヌ』が、鮮明に聞こえてきた。間違いない。

駐車場に足を踏み入れた。
「‥‥‥トイレ?」 ぼくは、駐車場の端にあるトイレの前で立ち止まっていた。
トイレ片側のアスファルト上には、乾きかけた赤黒い血があちこちに飛び散っていた。教頭先生が『ヒトデナシ』に切りつけられた場所だ。
不吉な痕跡を余所(よそ)に、『グノシエンヌ』のピアノの音は、明らかにトイレの中で反響していた。

次回へ続く