悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (146)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十一

静寂‥‥‥‥
不気味なほどの静寂が‥‥‥駐車場を支配していた。
そこに唯一(ゆいいつ)‥‥、荒々しく矢継ぎ早な呼吸音だけが、近く遠く響いている。

「ゴクリ‥」と生唾(なまつば)を飲み込んで、ぼくは我に返った。
駐車場までの全力疾走で完全に息が上がり、懸命に整えようとして自分自身が発していた自分自身の呼吸音だった。それがまるで他人事みたいに、デフォルメされて耳の中に届いていたのだ。

先生達の目を盗んで駐車場を出た時の景色そのままに、水崎先生の車がポツンと一台止まってはいるが、一切の人影は消えている。それは、駐車場から先に広がる芝生広場も同じで、人影どころか僅かな人の気配すら皆無だった。
「‥‥いったい‥、何があった?」ぼくは茫然(ぼうぜん)としながら、芝生広場に足を踏み入れていった。

誰かいないのか!などと叫び出したい衝動に駆られたが、それはあまりにも不適切に思えた。
唯々(ただただ)黙々と、広場を歩き回った。そして漸(ようや)く、芝生の上に無造作に放り出されたリュックを一つ見つけた。誰のものかは分からない‥‥‥‥‥「ん?」
今見つけたリュックの少し先に、もう一つリュックが転がっているではないか。ぼくは、他にまだありはしないかと、もっと先の方へ視線を向けた。

「うっ!」

思わず息を吞み込む。それが切っ掛けだった。
視線を百メートルほど先にある林、樹木が立ち並んでいる芝生広場の境界辺りまで向けた時、ずっと目の前に下がっていた帳(とばり)が俄(にわ)かに消え失せていくみたいに、いきなり何もかもが見え始めた。
血。真っ赤な血。飛び散った血。どす黒く染み入った血が、芝生のあちらこちらを斑(まだら)のごとく染め上げていた。
リュックももっと落ちている。帽子や水筒も落ちている。片方だけのズック靴。トレカ。そして、真っ二つに折れた虫捕り網‥‥‥‥‥‥
ぼくは一つ一つ、それらを確認する様に進んだ。ここで起きた事態を想像しながら。

見覚えのある大きいリュックがあった。風太郎先生が背負っていたアウトドアメーカーのロゴマークが入ったバックパックだ。明らかに血で汚れていて、その血が風太郎先生自身のものであることは、周囲を観察してだんだんに分かっていった。
血に混じって肉片が落ちていて‥‥、右の腕と左の手‥が落ちていた。次に見つけたのは、ちぎれかけた二本の足がおまけみたいについた下半身で、その次にあったのは切り刻まれた上半身らしきものだった。やはり見覚えのあるチェックのシャツが絡みつくみたいにくっついていて、首がなくても風太郎先生だと知れた。結局、身元確認の決め手となる首は、十メートル先で見つかった。意外なほど穏やかな表情をしていた。
「巨大迷路の外壁にいっぺんに二つ吊るされた死体は‥‥、風太郎先生ではなかったわけか‥‥‥‥‥」混乱して麻痺(まひ)しかけた頭の中の整理をつけるつもりで、ぼくは言った。口にした言葉に、それ以上の意味も、それ以外の意味もなかった。

次から次へと目に飛び込んできた光景に、拒絶反応が出たのかも知れない。だんだん体に力が入らなくなってきて、そこからはまるで彷徨(さまよ)う様に歩いた。
気がつけばいつの間にか、林のすぐ手前まで来ていた。芝生広場の西側の端(境界)で、ぼくたちはケヤキ並木で始まる林の中の道を抜けて、芝生広場までやって来た。この辺りになるとケヤキは姿を消し、マツやクヌギの木が多く立ち並んで雑木林をつくっていた。
ぼくは見るとは無しに、一番近くの立派な枝ぶりのクヌギの木を見上げた。

「‥‥‥‥‥‥え?」

クヌギの賑やかに茂った葉と葉の隙間に、‥ひとつ‥ふたつ‥みっつ‥‥の子供の首が現れ、ぼくを見ていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (145)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十

図らずも‥‥『赤い花』の存在を確かめ、水崎先生の行方を突き止めると言う二つの目的を、同時に果たす事となってしまった。それも最悪の結果を目の前に突きつけられて‥‥だ。
もはやこの遠足をできるだけ長引かせ、自分なりに楽しんでいられる状況ではなくなったのだ。

ぼくは口を真一文字(まいちもんじ)に結んで息を殺し、拳(こぶし)にした両手に力を入れたまま、音を立てないよう細心の注意を払って後退りを続けた。視線はもちろん、先生二人の『赤い花の死体』がぶら下がった巨大迷路北側の外壁(そとかべ)にずっと向けたままで‥‥‥‥‥‥
やっと二十メートルほど離れた地点まで来て、壁から十分な距離が取れたと判断すると、即座(そくざ)に踵(きびす)を返して駆け出した。一刻も早く、芝生広場の現状を確かめる必要があった。
元来た道筋をうろうろと辿ろうとは思わない。多少茂みが厚かろうが深かろうが、ここは舗装道路までの最短距離を一直線に一気に突っ切ってしまい、道路に出てから全力疾走で駐車場まで戻った方が、早く着く為には理にかなっている。ぼくは草を搔き分け、大股(おおまた)で真っすぐに進んで行った。
バサバサバササササーー どすん!
草に足を取られて見事に転倒した。すぐ起き上がろうと手をついて体をひねった時、背にして大分遠ざかっていた巨大迷路の外壁が再度視界に入った。

「えっ!」
思わず二度見してしまった。自分の目を疑った。
いつの間にか壁の『赤い花』が二つ増えて、四つになっていたのだ。

予見していた事とは言え、早速の進展に背筋が凍りつく思いがした。冷や汗が出た。
ぼくは首を突き出し、小さくなった壁を精一杯凝視し、次の二つの『赤い花』が一体誰なのか見極めようとした。
「‥‥‥無理か‥」判別できない。かと言って、また引き返すわけにもいかない。しかしその大きさから、子供でないのは確かだ。「大人二人‥‥それも一人は女性?」頭に浮かんできたのは、葉子先生と風太郎先生の顔だった。

ぼくは首を振り、あらゆる想像を取り消した。今あれこれ考えて気を揉(も)むより、とにかく芝生広場へ戻るのだ。戻れば全てがはっきりするはずだ。
そう心に言い聞かせて壁から目を背(そむ)け、ぼくは起き上がった。そしてふたたび舗装道路を目指し、足を動かし始めた。

右に左によろけながらも、絡みつく草を懸命に振り払って歩を進めた。さらに二度ほど転倒はしたが、それでも何とか最短距離を踏破(とうは)し、舗装道路に辿り着いた。
「フウゥッッ」
すっかり厚い雲に覆われてしまった空を仰ぎ、一つ大きく息を吐いた。それ以上の息を整える間を惜しんで、駐車場目指して走り出そうとした時、道路を挟んだ向こう側の茂みの中に大きな白いものが見えた。
「‥くる・ま?」車だ。白い軽自動車が、舗装道路を逸れて茂みの中に突っ込んで、ほとんど横倒しの状態になっている。フロント部分が芝生広場の方を向いているから、国道からこの支道に入って来て、おそらくここで事故を起こしたものらしい。ぼくは回り込むようにして、確かめに行った。
車の中には誰もいなかった。だが、散乱したファストフードの容器や紙コップなどと一緒に、少なからぬ量の血が飛散し、車内のそこら中を赤く汚していた。

「もう‥‥たくさんだ‥‥‥」そう呟いて、ぼくは車から離れた。
何かが途轍(とてつ)もない速さで進行している、そんな気がした。
ぼくは駐車場目指し、芝生広場目指して、全力で走り出した。

次回へ続く