悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (126)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十三

歌曲『野ばら』は、ゲーテの名詞にシューベルトやベートーヴェンなどの名立たる音楽家が曲をつけたもので、複数のバージョンが存在する。
日本では、近藤朔風の日本語訳詞で歌われるシューベルトとヴェルナーのものが広く知られていて、同じ歌詞ながらそれぞれが異なる趣(おもむき)の二曲である。
ツジウラ ソノが今歌っていたのは、4分の2拍子の軽快な印象の、シューベルトが作曲したバージョンであった。

「ねっ、ねえ!」ぼくは思わず、駐車場に佇(たたず)むツジウラ ソノに声を掛けていた。
彼女はすぐに振り向いてこちらに身体を向け、驚いた様子もなく真っすぐな瞳でぼくを見た。
「あ‥‥」そしてぼくはその時になって初めて気がついた。転入して来たばかりのツジウラ ソノと二人きりで面と向かって話すのは、これが初めてだと‥・。

「ヒカリ‥‥くん?」
彼女はぼくの名をちゃんと覚えていて、他の女子達が呼ぶ様にぼくをそう呼んだ。
「あ‥・うん‥‥‥」
ぼくは、ツジウラ ソノの醸(かも)し出す雰囲気がやはりどこか『ソラ』を連想させる、と改めて思った。たぶんぼくはしばらくの間、彼女の姿をまるで呆(ほう)けた様子で眺めていたのだろう。彼女は小首を傾(かし)げて、怪訝(けげん)な表情でぼくを窺い始めた。

「あっ、ごめん。きっ、きみの歌ってた曲のことが、きっ、聞きたくて‥・」
「‥野ばら‥‥のこと?」
「あっ、うん。どうしてその曲を歌っていたの?」
ぼくの唐突な質問に彼女は表情を少しくずし、駐車場の柵の外、草木が生い茂る北側の広がりを漠然と指差してこう言った。「あっちの方から突然、野ばらの曲が聞こえて来たの‥‥。それでつい‥‥歌っちゃった‥」
やっぱりそうか!前に聞こえて来た微かな謎の音も、さっき聞こえていたメロディーも、野ばらの旋律だったのだ。
「それにしても君は、よく野ばらの詩と曲を知っていたね。合唱部で教わったの?」
このぼくの質問にツジウラ ソノは、なぜか虚を突かれたような表情を浮かべた。そして明らかに戸惑いながらこう答えた。「誰にも‥‥教わっていない‥‥‥。気がついたら‥‥知っていた‥‥‥‥の‥」
「気がついたら‥‥知っていた?」僕はその不可解な答えの彼女の言葉を、思わず繰り返していた。

とその時である。
「え?」
「あっ」
唐突にふたたび、広がる茂みのどこかから、野ばらのメロディーが聞こえ始めた。
ぼくは急いで駐車場の柵まで走って行って、そこから身を乗り出す様にして、聞こえてくる場所を特定しようと試みた。そして必死で耳をそばだてているうち、音が電子音で、『携帯の着メロ』ではないかという考えが頭を過(よぎ)った。

心配顔の葉子先生が、水崎先生に連絡を取ろうと携帯電話を何度も掛け直している場面が‥‥‥頭の中に浮かんでいた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (125)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十二

サンドイッチのお弁当は残さず胃の中に収めたものの、消化の始まった合図みたいなあの独特の微睡(まどろ)みが、今日のぼくには一向に訪れる気配はなかった。おそらく、隣にいる女子たちから聞こえて来た『人の手に見えるバッタ』の話に気味の悪い想像を働かせてしまったのが原因であろう‥‥‥‥‥

ぼくは、「どうだい‥腹ごなしに散策でもしてみないかい?」と傍らにいるモリオに声をかけてみた。赤い花の存在を確かめる目的の『例の探検の計画』の実行を早速提案してみたのだが、彼は大きなあくびをしたかと思うとごろんと草の上に横になり、「今は無理‥」と一言返して目を閉じてしまった。
「そうか‥‥」ぼくは落胆の小声で了解を伝えると、やはり自分だけで行動すべきなのだと改めて思った。
取りあえず、ひとりでまた駐車場まで行ってみようと考えて立ち上がり、リュックはその場に置いたまま、本当に眠ってしまいそうな様子のモリオに背を向けて歩き出した。

開放感でいっぱいの芝生広場は、そこかしこでそれを満喫する生徒たちの貸し切り状態だった。
虫取り網を両手に握りしめたタスクが、それを振り回しながら前方を走り抜けて行った。シロツメクサが群生した場所では女子数人が、四つ葉のクローバー探しに夢中になっていた。
いつも走り回っているイメージしかないタキやアラタたちはてっきり鬼ごっこの続きを始めているかと思いきや、誰かが持参してきたものであろうトレーディングカードを芝生の上に広げ、前かがみの車座になって神妙な顔つきでゲームに興じていた。「まったく今時の小学生ときたら‥‥」ぼくはそう呟き、苦笑いをしながら彼らの横を通り過ぎた。

駐車場の手前まで来た所で、立ち話をしている葉子先生と教頭先生に出くわした。
「車があるんだし、ここに来ている事は絶対間違いないんです。やっぱり何かあったんでしょうか‥‥‥」
「うーむ‥‥‥‥」葉子先生の言葉にしばらくの間黙り込む教頭先生。眼鏡の奥の目が細められ、苦悩がにじみ出る。水崎先生の姿が見えない事態は、未(いま)だ解決されていない様である。
「私、もう一度携帯に掛けてみます」そう言いながら、中折れ型の携帯電話を取り出す葉子先生。
「そうしてください。何度でも、掛け続けた方がいい」彼女を促す教頭先生だったが、その時、ぼくが近くにいる事に初めて気がついたらしい。コホンと咳払いをして葉子先生に目配せし、二人してその場から立ち去って行った。
先生たちにとって‥否(いや)、ぼくたちみんなにとってもこの事態はきっと、かなり深刻なものなのかも知れない‥と思った。
「ふぅ‥・」ぼくはため息みたいな言葉をひとつ口から吐き出して、再び駐車場へと足を踏み入れていった。

と、その時である。音楽が‥‥、微かなメロディーが‥また聞こえた気がした。
思わず足を止め、耳を澄ます。「‥‥‥‥‥‥‥‥」

確かに聞こえている。間違いない。
ぼくは音が聞こえてくる方向を全身全霊をかけて探りながら、ゆっくりと、歩を進めていった。
やはりその方向は北側‥‥で間違いない。駐車場の柵の外の‥果てしなく生い茂る草木の‥そのどこかから‥だ。

「‥わ‥・ら・べ・は・みいたありぃぃぃ‥‥‥」
「えッ?!」
突然すぐ横から、今度は女の子の歌声が聞こえてきた。ぼくは心臓が破裂しそうなほど驚いた。
見るとぼくの右手前方の柵の前、一人の女子がぽつんと立っていて、柵の外を見つめながら歌を歌っている。

「わ・ら・べ・は・みぃたぁりぃぃぃ の・な・かぁのばぁぁぁらぁ‥」

「童は見たり‥・野なかのバラ‥‥・」ぼくは聞き覚えのある歌詞を復唱していた。そしてその時気がついたのだ。微かに聞こえていた音楽も同じ曲で、歌っている彼女はそのメロディーに合わせて歌っているのだと。
ぼくはしっかり確かめるために彼女を見据えた。

そこにいて歌っていたのは紛れもなく‥‥‥『ツジウラ ソノ』だった。

次回へ続く