ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (58)

最終話「夕暮れ」 その十五
「人間は・・まったくもって、簡単ではない・・・・・」

私の田舎のT町では、毎年お盆の行事に絡めて花火大会があります。小規模ながら、会場が目と鼻の先だったので毎回かぶりつきで臨場感たっぷりの花火を満喫でき、夏休み後半の大きな楽しみの一つになっていました。
私の町だけでなく、近隣の市や町でも立秋を過ぎた辺りから日程がかぶらない感じで幾つかの花火大会が催されます。実はそれらも楽しみに待っていて、わざわざ会場に足を運ぶのではなく、別の味わい方をしていたのです。

私の町から十数キロ離れたK町、三十キロ程のS市はいずれも紀伊半島の東岸に位置していて、花火大会の会場はいずれも海辺なので、同じ東岸でやや突き出た形の私の町の岬に行けば、「遠花火」として鑑賞出来るのです。

K町の花火は小さいながらしっかり観え、かなり遅れて音が聞こえます。S市のそれは色彩は判りますが流線までは見えず、音も届きません。
しかし、夜に人気のない岬に立って「遠花火」を観るのは、どこか神秘的で独特の味わいがありました。

話は変わりますが、心理学でフロイトなどの精神分析の入り口の門を叩く時、必ず出会う「図」があります。
「水に浮かぶ氷山の図」で、人間の精神が氷山だとすると、私達が普段の生活で「意識」している部分は水の上に見えるほんの一部分で、残りの大部分は水面下に隠れた「無意識(潜在意識)」であるという状態を示すものです。
つまりは、人間は表向きだけでは解らない、普段は隠れているあるいは眠っている大部分の心の深層にこそ理解する為の答えが潜んでいるという事でしょうか。

私は、高校の「倫理社会」の授業で、大学では一般教養の選択受講で「心理学」を教わりました。人を知る、人間を理解しようとするこの分野は、今も興味が尽きませんが、世の中で人が起こす奇妙不可解な出来事の数々や昨夜に観た悪夢に自分なりの拙い分析を試みる時、必ず頭に浮かぶイメージがあります。
それは例の「氷山の図」ではなく、遠い夏休みの夜に岬にたって眺めた「遠花火」。
色とりどりの光の花は咲くものの、打ち上げられて破裂する瞬間の音は聞こえずか遅れてやって来て、到底一致を見ない独特の違和感が、人の心のあり様を連想させるからでしょうか・・・・・・。

次回へ続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (57)

最終話「夕暮れ」 その十四
「やはり人間は・・簡単ではない・・・・」

小学六年生の私が「ジキル博士とハイド氏」を読んで、人間の内側に潜む願望や衝動の存在に薄々ながら気づかされた時、世の中への見方感じ方が変わったのは事実です。
幼少の頃は感情のおもむくままに泣いたり笑ったり、時には叫んだりしてまわりの大人達を困らせていたものが、大きくなるにつれてそれが出来なくなっていった事は実感しています。人と上手くやっていこうとか、少しでも自分を良く見せようという気持ちが働いて、「我慢する」という事を覚えていったのだと思います。
我慢して大人しくなる。「大人しい」という言葉は、読んで字のごとく大人らしくなる事なのです。

「我慢」は、時にはひどく骨の折れる事もありましたが、慣れていく事も分かってきました。そして何よりも確実に、後々の自分の利益に結びついていったのです。

この、人の「成長過程」とも呼ぶべき一連のものは、私が身を置いていた小学生の社会の中ではひどく個人差のある現象で、「随分大人びて見える」あるいは「かっこ良く感じる」同級生や上級生の言動に憧れ、手本にしたものでした。

しかし、実際はそう容易く人は収まりをつけて成長していけるわけではないのです。「我慢」は「抑圧」を生んでいきます。「抑圧」は、人がその社会性を保持していく為の「自我の防衛機制」。我慢によって締め出された感情は様々、おそらく本人しかこだわっていないようなすぐに忘れてしまいそうな些細な事に対するものであったとしても、意識下に押し留められ保持されます。
「ジキル博士とハイド氏」で使われた「薬」は、悪の人格を分離して顕在化させるものでしたが、言わば「抑圧」によって意識下に押しやられた願望や衝動を解放する薬であったわけです。

現実には存在しない「薬」が使われたような現象、「願望や衝動の解放」が実際に世の中のあちこちで起こっているのではないか・・・・
おぼろげながら私はそんな思いにとらわれ初めていました。

次回へ続く