悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (222)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百七

もともと‥‥胴体に乗っかっていただけの首だったのだ。だから首の付け根から上の部分だけが根無し草の様に百八十度回転し‥‥こちらを向いたのだ。ただそれだけの‥ことである‥‥‥‥‥


巨大迷路の長めの直線通路だった。
風太郎先生の後をつけるべく分岐通路から飛び出したぼくと高木セナだったが、先生はすでにぼく達の存在に気づいていて、通路の先で背中を向けて立ち止まったまま、ぼく達二人が追いつくのを待っていた。勢い込んでいたぼくと高木セナは、立ちはだかる風太郎先生の後ろ姿に仰天し、凍りついたみたいに立ち止まった。

「ふ‥ゥ」 ゴクリ‥ 「風太郎‥ 先生‥‥」
ぼくは、唾(つば)を飲み込んでから、やっとの思いで声を絞り出した。
だが、こちらに背を向けたままの風太郎先生からは反応はない。
「‥せっ 先生?」 今度は上擦った調子で、高木セナが声をかける。
しかしやはり、しばらく待ってみても、先生からは何の返答もなかった。

ヒクッ‥ ミシリ‥
その時である。奇妙な音が微(かす)かに漏れ、通常あってはならない現象が起こった。
クチャッ‥‥
両肩と背中はそのまま微動だにせず、風太郎先生の首だけがゆっくりと回り、こちらを向いたのだ。
ぼくは、思わず上体をのけ反らせていた。高木セナはと言うと、眼球が飛び出んばかりに両目を見開き、棒立ちになっていた。
ピチャッ‥ とやはり音がして、今度は首にある口元が緩(ゆる)んだ。そして唐突に、パクパクと引きつったみたいに動き出し、漏れ聞こえていたものとはまったく違う『波動』と『振動数』の音が、そこから響いて来た。

「うじょう‥しんな‥ ごぎたいば‥‥ うがべじ‥さぜぜ ぐ ぎだだぎまが‥じだ‥‥」

それは、『言葉』だった‥‥のだろうか??
喋っていると言うより‥、幾(いく)種類かの違う『摩擦音』が、抑揚を意識しながら組み合わされた旋律的な連なり。例えるなら、チェロやバイオリンの絃(げん)を、弦同士(どうし)で擦り合わせているみたいな音色(ねいろ)だった‥‥‥‥‥

「‥わ‥ わかせんせ‥い‥‥‥」

「え?」 突然、別の方向から、正真正銘の人の言葉が聞こえて来た。高木セナの声だった。
ぼくはびっくりして、傍らに立つ彼女に目を向ける。
気がつけば、高木セナの全身は小刻みに震えていて、さらに彼女の見開かれた両目が、今まさに白く裏返っていく瞬間を目(ま)の当たりにしてしまった。
「おっ! おい!」 ぼくは慌てて、高木セナに手を差し伸べた。しかし彼女の身体はぼくの手をすり抜け、膝をたたむ様にして頽(くずお)れていった。

高木セナが、気絶した‥‥。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (221)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百六

最愛の娘『ソラ』を失った‥‥。
そして‥いつの間にか‥、ソラの輪郭だけが抜け殻の様に残って、中身が完全なる空洞の、『ソラの空白』が僕の心の真ん中に出現していた。
その、娘の輪郭と名前を持つ『空白』は、この世のどんな物質や事象を投入しようとも一切埋まらず、悲しみを紛らわそうとして掻き集めて来たそれらは全て弾き出され、『空白』の縁(ふち)の外、ソラの輪郭のあちらこちらに付着して、だんだんと溜まっていく感覚があった。
最初は鮮明に娘の愛らしさを保持していると思い込んでいたソラの輪郭だったが、嘆き悲しむ日々を遣り過ごす知らず知らずのうちに、歪(いびつ)に変形し、且(か)つ肥大化して、その容子(ようす)が刻々とまるで生き物の様に変化していくのを朧(おぼろ)げに認識できた。

その変容と共に僕の心が‥‥、僕の精神が‥‥、壊れようとしているのかも知れない‥‥‥‥

自分の知らないうちに口から漏れ出してしまっている『独り言』が、その兆(きざ)しの一つだと考えて間違いはないだろう。
問題なのは、その壊れ方だろうか?

僕の心が今のまま、『ソラの空白』を心の中に頑(かたく)なに維持し続けようとしているとする。それでも自分を護ろうとする本能がその空白を埋めようと自然に働いて、結局は弾き出されてしまう『所詮(しょせん)ただのすり替えの慰(なぐさ)みに過ぎない様々な異物』がそのまま『空白』の縁の外に蓄積し、ソラの輪郭を全く予想だにしない形状へと、更に‥もしかしたら途方もない負のエネルギーを内在した危うい塊(かたまり)へと変容を遂げていたとしたら‥‥‥、はたして僕の心は最終的にどうなってしまう‥だろう??

「破裂して粉微塵(こなみじん)に‥砕け散るか‥‥‥」それとも、現実的に、「大声で何かを喚(わめ)き散らし出すか‥‥、暴れ出して手当たり次第に何もかもを破壊してまわる‥‥‥か‥」

「‥それはダメだ。そんなことをしたら、妻に怪我をさせるし、悲しませる‥‥」それだけは絶対、避けなければならない‥‥‥‥‥

「待てよ?」‥そう言えば、さっき聞こえた自分自身の独り言。「確か‥ おまえらみんな、くたばっちまえ!」‥だった。

「そうだよ、怒っていた‥」‥きっと僕自身のどこかが今、何かを憎んでいるのでは‥あるまいか?

「ああ‥そうだよきっと。‥で、いったい何を憎んでる? 人か? この世の中か??‥‥」

どこまでが『声に出したこと』で、どこまでが『頭の中で思ったこと』だったのか、区別がつかない奇妙な自問自答だったが‥‥、おそらく僕はその時すでに答えを持っているはずだと‥‥、独り言みたいに頭の中で思った。

次回へ続く