悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (224)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百九

日常生活で何気なく通り過ぎてしまう些細な出来事の中にも、『先入観』や『偏見』で目が曇らされ、知らぬ間にそのものの本質からかけ離れた『間違った認識』を持ち続けていた‥ということが、人には度々(たびたび)ある。
高木セナが気絶する直前に、風太郎先生のことを『若先生(わかせんせい)』と呼んだのは、そんなことの一つだったのだろうか?
「‥それとも、わけが分からなくなるほど、ただ気が動転してしまっていたのか?‥」ぼくは膝枕(ひざまくら)の上で眠る、高木セナの顔を見ながら呟いた。

先程まで波の様に押し寄せていた頭痛は、収まっていた。
風太郎先生は迷路の何処(いずこ)ともなく姿を消し、直線通路に高木セナと二人残されたぼくは、幾分冷静さを取り戻していた。
何はともあれ、高木セナの口から出た言葉の真意は、本人が意識を取り戻してから聞いてみるのが一番の得策であることに間違いはない。しかし、彼女を揺さぶってまでして目覚めさせる気は、ぼくにはなかった。彼女は今、この遠足に来てから初めての安らぎを手に入れているかも知れないし、もしかしたら‥『得てしてその意味への問いかけがつきまとう予知夢』と違って、差し障(さわ)りのない、子供らしい長閑(のどか)な夢を見ているかも知れないではないか‥‥‥‥

「‥‥‥‥‥‥・ 」 高木セナの顔から逸らした目線が、傍に置いてあった彼女のリュックを捉えていた。
ぼくはそれに手を伸ばし、ゆっくりと引き寄せた。そして「中を見るよ」と一応彼女に断(ことわ)ってから、ファスナーを開けた。
ぼくは、リュックの中から、高木セナのスマートフォンを取り出していた。

「これを使えば、もしかしたらセナはいつも‥みたいに‥‥‥」 ぼくはそう言って彼女のスマホを、彼女が枕にしているぼくの膝元辺りに置いた。そしてすぐさま自分のリュックを背中から外し、その中から今度は自分自身のスマホを取り出した。
ダメ元(もと)でも、試してみる価値はある。ぼくは自分のスマホを手に取り、( 大人の手ではなく子供のそれである分 )不器用にもどかしく両手を使って、操作し始めた。

操作を終えて僅(わず)かばかりのタイムラグ。やがて高木セナのスマホから、ポロロンロォン ポロン ー ー とピアノの音色が響き出した。彼女が着信音にしている『サティーのグノシエンヌ』である。
彼女はこの曲がお気に入りで、一時期、目覚まし時計の音としても利用していたことをぼくは思い出していたのだ。
グノシエンヌが流れ続けている。必ず効果はある。ぼくはそう信じていた。小学二年生の高木セナはまだこの曲を知らないだろうが、今の彼女の中に眠っているであろう本来のポテンシャルが、必ず大人の彼女を揺り動かす。着信音は続く‥。現に気絶する前、彼女は『若先生』という言葉を口にしている。それは既に『大人の彼女の眠り』が少しずつ綻(ほころ)びを見せている証拠ではないのか????
メロディーは続いていた‥‥‥‥‥‥

「‥う」
その時、小さな呻き声が確かに聞こえた。「セナ?!」と、ぼくは彼女の顔を包むように手を遣り、「セナ!!」と、彼女を見つめた。

彼女は薄目を開けてぼくの顔を不思議そうに見上げ‥‥‥、そして「ヒ‥ ヒカリさん?‥」と言った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (223)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百八

「セナ?! セナッ セナ!!」

ぼくは、高木セナの体が地面に倒れる寸前に何とか彼女の上半身を支え、抱え込んだ。
「セナ!‥」
考えてみれば、他人がいる場所で、妻のことを名前で呼んだのは初めてだったと思う。他人の前だけではなくて、娘のソラの前でも『かあさん』と呼ぶことにしていて、彼女を名前で呼んだことはおそらく無かったはずだ。
自分が今回、この『小学二年生の遠足』に参加してるのを自覚してからも、他のクラスメート達を意識して、セナのことは『高木セナ』と旧姓のままのフルネームで呼ぶようにしていた‥。

「セナ‥‥ 」
ぼくは高木セナの背中から邪魔になるリュックを外し、彼女を仰向けにしてぼくの膝枕(ひざまくら)に寝かせつけた。そして声を掛けながら、彼女の少し青ざめた顔を被(かぶ)さる様にしてまじまじと見つめた。
「セナ?‥ 」
彼女は意外にも平穏な顔をしていて、少し安心したついでに、こんな至近距離から妻の顔をまじまじと見つめるのは一体‥いつ以来だろうか?‥と思った。
「セナ‥‥ 」
俯(うつむ)いたまま見つめていた両目に、いつの間にか涙が溜(た)まっていた。彼女の薄っすらと開いたままの目や長いまつ毛が、滲(にじ)んでぼやけていった‥‥‥

「ごぎゅぐごぐ‥ がぎばどうごじいばじだ‥‥ 」
再び、『摩擦音』みたいな言葉が聞こえて来た。ぼくは、目に溜まった涙を振り払う様に、風太郎先生の首を仰ぎ見た。
ギュシュッッ‥ 何度目かの奇妙な音が漏れ、風太郎先生の首がまたしても回転し始めた。ゆっくりゆっくり百八十度回転して‥胴体と同じ向きに、言わば『正位置・正方向』に戻った。
ぼくは呆気(あっけ)に取られてその様子を眺めていたが、動作の最中の首の付け根周辺に、どす黒いものが見え隠れしながら蠢(うごめ)いていたのを見逃さなかった。

首が正位置・正方向に戻り、完全な後ろ姿となった風太郎先生は、『これで用が済んだ』とばかりに、体が正面を向いている直線通路前方へと歩き出し、そして遠ざかって行った。

「‥‥‥‥いま、もしかして‥」 風太郎先生を見送ったぼくは呟いた。「‥ありがとう‥ございましたと‥‥、言ったのか?」
たまたまそう聞こえただけなのかも知れないが、風太郎先生が発した「がぎばどうごじいばじだ‥‥」は、ぼくの耳にはどこか‥‥、「ありがとうございました‥‥」と響いた。

もし、それが空耳でなかったとしたら‥‥、風太郎先生はなぜぼくに、感謝の言葉を残したのだろう??‥‥‥‥‥

「はっ!」
ぼくは突然、高木セナが気絶する直前に漏らした言葉を思い出した。その時は意味不明で、危うく忘れかけていたが‥‥、彼女は確か「‥わ‥ わかせんせ‥い‥‥」と言ったのだ。
ズキン!!
その時、頭に強い痛みが走った。何かを思い出そうとして幾度か繰り返された、例の頭痛の前兆だ。
ズキン!!
頭を抱えそうになった。思い出さなきゃ治(おさ)まるはずだ。
ズキリ!!
否(いや)!そんなわけにはいかない!思い出さないと、『この先』へは進めない!
セナが口にした『呼びかけ』に、ぼく自身確かに聞き覚えがあったのだ!
ズキズキン!!
「わか‥ッ 若先生!」 走る痛みに耐えて叫んだ。 「イケノハタミナミ病院の若先生!!」

やっとの思いで絞り出した記憶は、学校の教師ではなくて‥‥ 病院の医者を指す呼称‥‥だった。

次回へ続く