第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十一
小学校のクラスメートであり、今の妻であるセナは、ぼくよりも記憶力が優れているのは確かだ。
セナは幼い頃から、周りの物事への独自で独特のこだわりを持っていて、その『こだわり』ゆえの観察眼 観察力には、たびたび舌を巻いた。だから彼女の小学校時代の記憶と言えども、信憑性(しんぴょうせい)はあるはずだ。
ところがぼくはと言うと‥ 実際、小学生の頃の担任の先生の顔など、『思い出せているのか思い出せないのかも分からない』漠然としたものだったし、それを確認できる古いアルバムには、勿論当時の集合写真や行事 イベントのスナップ写真は残っているだろうが、ページを最後に開いたのはいつだったのかも思い出せない。
「本当に風太郎先生は、最初から若先生の顔をしてたんだね?」 ぼくはセナに間違いないか確認した。
池ノ端南(いけのはたみなみ)病院の若先生は前院長の次兄で、『若先生』と言っても三十路は超えていて、院内の循環器内科にいた。
「ええ‥ 他の先生方もみんな、最初から顔が違ってた」セナは答えた。「‥でも、仰(おっしゃ)ってたことや為(な)さってたことは、当時の小学校の先生方のそれと変わらない気がする‥‥‥」
ぼくは、外見が『小学二年生のままのセナ』と、内面の『大人のセナが繰り出す適切な敬語』とのギャップにかなり気を取られながらも、「‥‥またさっきの嫌なことを思い出させるかも‥‥知れないけど」と前置きして、まだ震えが完全に治まっていないセナに次の質問を用意していた。
「若先生の顔をした風太郎先生は何か喋ってたけど‥‥、ぼくには皆目(かいもく)聞き取れなかったんだ。ただ‥、君が気を失ってしまってから、先生が去って行く別れ際に口にした一言だけは、ぼくには『あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・し・た・・・・』と、感謝の言葉に聞こえたんだ‥‥‥」
ぼくの言葉に、震えながらもセナが興味を示したのが分かった。ぼくは続けた。
「君は、彼の喋った言葉の中に、聞き取れたところは‥なかったかい?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」記憶に思いを巡らす様にしばらく間を置いてから、セナは口を開いた。「仰っていたことは、私にも上手く聞き取れなかったけど‥‥、『若先生の言葉』だと思って聞いていたからたぶん‥‥‥‥」
「‥‥たぶん?」 ぼくは、思わず先を促(うなが)した。
「たぶん‥‥『ソラの献体(けんたい)』のことを仰ってた気がする‥。『ありがとうございました』は私たちへの、協力へお礼だったのかも‥‥知れない」
「なっ 何だって?!」
「だって、ソラの『病理解剖(びょうりかいぼう)』は、臨床医(りんしょうい)だった若先生が指揮をお執(と)りになった‥はずだもの」
次回へ続く