悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (256)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十一

小学校のクラスメートであり、今の妻であるセナは、ぼくよりも記憶力が優れているのは確かだ。
セナは幼い頃から、周りの物事への独自で独特のこだわりを持っていて、その『こだわり』ゆえの観察眼 観察力には、たびたび舌を巻いた。だから彼女の小学校時代の記憶と言えども、信憑性(しんぴょうせい)はあるはずだ。
ところがぼくはと言うと‥ 実際、小学生の頃の担任の先生の顔など、『思い出せているのか思い出せないのかも分からない』漠然としたものだったし、それを確認できる古いアルバムには、勿論当時の集合写真や行事 イベントのスナップ写真は残っているだろうが、ページを最後に開いたのはいつだったのかも思い出せない。

「本当に風太郎先生は、最初から若先生の顔をしてたんだね?」 ぼくはセナに間違いないか確認した。
池ノ端南(いけのはたみなみ)病院の若先生は前院長の次兄で、『若先生』と言っても三十路は超えていて、院内の循環器内科にいた。
「ええ‥ 他の先生方もみんな、最初から顔が違ってた」セナは答えた。「‥でも、仰(おっしゃ)ってたことや為(な)さってたことは、当時の小学校の先生方のそれと変わらない気がする‥‥‥」
ぼくは、外見が『小学二年生のままのセナ』と、内面の『大人のセナが繰り出す適切な敬語』とのギャップにかなり気を取られながらも、「‥‥またさっきの嫌なことを思い出させるかも‥‥知れないけど」と前置きして、まだ震えが完全に治まっていないセナに次の質問を用意していた。

「若先生の顔をした風太郎先生は何か喋ってたけど‥‥、ぼくには皆目(かいもく)聞き取れなかったんだ。ただ‥、君が気を失ってしまってから、先生が去って行く別れ際に口にした一言だけは、ぼくには『あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・し・た・・・・』と、感謝の言葉に聞こえたんだ‥‥‥」
ぼくの言葉に、震えながらもセナが興味を示したのが分かった。ぼくは続けた。
「君は、彼の喋った言葉の中に、聞き取れたところは‥なかったかい?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥」記憶に思いを巡らす様にしばらく間を置いてから、セナは口を開いた。「仰っていたことは、私にも上手く聞き取れなかったけど‥‥、『若先生の言葉』だと思って聞いていたからたぶん‥‥‥‥」
「‥‥たぶん?」 ぼくは、思わず先を促(うなが)した。
「たぶん‥‥『ソラの献体(けんたい)』のことを仰ってた気がする‥。『ありがとうございました』は私たちへの、協力へお礼だったのかも‥‥知れない」
「なっ 何だって?!」

「だって、ソラの『病理解剖(びょうりかいぼう)』は、臨床医(りんしょうい)だった若先生が指揮をお執(と)りになった‥はずだもの」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (225)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十

予見していた通り‥‥、目を覚ましたセナはそれまでの『高木セナ』ではなく、娘の死を含めてぼくと共に様々な時を乗り越えて来た、『大人のセナ』だった。
かと言って、大人の記憶が甦(よみがえ)ったのと引き換えに、『遠足での体験』を忘れ去ってしまったわけではない。彼女に言わせると、「リアルな夢を見続けていたあと、目を覚ました時」みたいに、大体を憶(おぼ)えている‥‥らしかった。

「どうして私も ヒカリさんも‥ 小学生になってるの?」
目覚めたセナにいくつもの質問を用意していたぼくを差し置いて、彼女の方から先に質問が飛び出して来た。
ぼくは、「飽くまでも自分の想像なんだけど‥ 」と前置きして、迷い込んだこの『時空』が、『いつかみんなで小学生になって、いっしょに遠足に行こう』などと、死ぬ前のソラと冗談めかして話した、そんな『約束の場所』なのかも知れない‥‥と答えた。
「 ‥そう‥‥ 」とセナは納得したでもなく、つかぬ言葉を漏らした。そして、遠足に来てからの記憶を一つ一つ精査でもしているかの様な長い間を置いてからぼくの目を真っすぐ見据(みす)え、こう言った。
「ツジウラ ソノさんは‥‥ 本当にソラ?」

「え?」
ぼくは、まるで虚を突かれたみたいに驚いてしまった。そして、その問いの内容の重さに、初めて気がついた。
「こ‥ これといった‥絶対的な確証は、ないんだ。だから、はっきりした答えを求めて、ツジウラの後を追ってここまでやって来た‥‥‥」ぼくは正直に答えた。
いくら約束していたからと言って、確かに『死んだ人間が生き返り、小学二年生の姿をして、転入生としてクラスのイベントに参加している』など、これが『奇跡』ならばその荒唐無稽さにも程(ほど)がある。『奇跡』と言うよりむしろ、『この山に棲む魔物』の力による『呪い』に近いのではないかと思った‥‥‥‥‥

「私にはこの遠足が、最初からまったく別の意味を持つイベントだった‥気がする」セナは小さな声だったがはっきりと、そう言った。
目覚めたばかりの『大人のセナ』には、物事の全体像を俯瞰(ふかん)できる冷静な目が備わっているのかも知れない。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
どちらも次の言葉を継(つ)げず、沈黙の時が流れた。そしてその沈黙は結果的に、ぼくがセナへと用意していた質問をひとつ提示する、ごく自然な機会となった。
「ところで‥‥ 君が気を失う寸前に口にしたことを憶えているかい?」
「え?‥」
「君はあの時、風太郎先生に向かって、『わかせんせい』と言ったんだ」
「えっ? あッ!」 途端にセナの顔色が青ざめた。おそらく、風太郎先生の首だけが回転してこちらを向いた場面を思い出してしまったのだ。肩が震え出し、彼女は両手で顔を覆ってしまった。
「ごめん‥ 嫌なことを思い出させた」 ぼくはそんなセナの肩に手を置いた。「‥大丈夫?」
肩の震えは治まらなかったが、彼女は勇気を絞(しぼ)り出すみたいに「大丈夫!」と返事をし、さらに先を続けた。

「あれは間違いなく、池ノ端南(いけのはたみなみ)病院の若先生! 小学校時代の私の記憶にある『風太郎先生』とは、似ても似つかないわ!」
「えっ?!」
「風太郎先生だけじゃないの! 教頭先生だって、葉子先生だって、たぶん水崎先生も! みんながみんな記憶にある小学校の先生じゃなくて、ソラがお世話になって来たいろんな病院の先生方と、置き換わってるの!」

次回へ続く