悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (263)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十八

落ち着け! 落ち着け! 落ち着かなければ、『内なる声の導き』を見失ってしまう‥‥

この世界はぼくが拵(こしら)えたもので‥‥、例えそれをはっきりと自覚していなくとも、ぼくが『ぼく自身を陥(おとしい)れる様なシナリオ』を描くはずはないと信じている。『内なる声』が提示しているさり気ない『導き』を見失わず素直に従っていくことで、自ずと道は開けていくはずなのだ。

「 大丈夫なの?!ヒカリさん! 」
焦る僕の気持ちを敏感に感じ取って、セナが心配そうに声を掛けてきた。
「 あっ ああ、大丈夫だ‥ 」
ぼくは取り繕(つくろ)った生返事(なまへんじ)をしながら、懸命に頭の中を整理しようとしていた。
まるで金縛りみたいに、なぜぼくの右手はそのままの状態で動いていないのだろう?
ここまでの成り行きを振り返ってみても、この‥音符の花が並べられた板壁(いたかべ)は、ぼくを陥れるための『罠(わな)』などではなく、『導き』であるはずなのだ。
だったら、何がいけない? 一体ぼくの行動の‥何が間違っている??

「 何をためらってるの?ヒカリさん! 少しでも右手を動かしてみて! 」
ぼくが躊躇(ちゅうちょ)しているのだと思って、セナが急(せ)かした。
ぼくは躊躇などしていない。ただ、ぼくの右手が一体どうなっているのか確かめるために、少しだけ右腕を手前に引いてみた‥だけで‥‥‥‥‥‥

「 ‥‥ぼくは躊躇して ‥いるのか? 」 その時ぼくは気がついた。この状況が『罠』ではないと、自分自身が信じ切れていないのだと言うことを。だから、自(みずか)らこの様な膠着状態(こうちゃくじょうたい)を呼び込んでしまっているのかも知れない‥‥‥‥
「 ヒカリさん! がんばって! 」 セナの励ます声が迷路通路に響いた。

「 ‥うん‥‥‥ そうだよね 」
彼女の声で、幾分(いくぶん)冷静さが戻った気がした。
ぼくは今ここで、何をしているのか? 辿り着いた今、この状態にある意味を考えてみた。別段‥、板壁に血で描かれている『音符の花』を、摘んでみたかったわけではないはずだ‥‥‥‥‥

「 ぼくが‥今本当に欲(ほっ)しているのは、現状の打開。 この通路からの出口を見つける‥ことなんだ! 」
自分の声に励まされる様に、ぼくは右手に力を込めた。先ほどとは逆に、板壁に接したところで途切れて消えている右手前腕(ぜんわん)を、壁に押しつける感覚で思い切り前方に突き出した。

「 はっ!?
ぼくは思わず息を吞んだ。突き出した右腕は何の抵抗も受けず、見る見るうちに右前腕の全てと続いて二の腕がぼくの肩口まで、壁板に刺さっていくみたいに消えて行った。

最初にどこからか『野ばら』の歌声が流れて来たことも、板壁に押された赤い花のスタンプの一部が『野ばらの音符の配列』であることに気づかされたことも、そしてその結果としてぼくに『野中のばら』の歌詞を思い起こさせたことも、そして更には『血が垂れてできた茎(くき)を持つ音符の花』を摘ませようとして、板壁に向かってぼくに手を出させたことも‥‥、すべてはぼくを『この状態』に至らしめるための『導き』であったのかと‥、即座にぼくは悟った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (262)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十七

「 ヒカリさん!その右手!? 右手が大変よ!! 」

「 えっ? 」
傍(そば)で見ていたセナの悲鳴みたいな声に、ぼくは瞑(つむ)っていた両目を思わず見開いていた。
そして真っ先にその視界に入ったのは、目の前の板壁(いたかべ)とぼくの右手‥‥‥「 え‥?? 」

そこに見えた光景は、摘もうとしていた『赤い音符の花』の描かれた板壁と、その少し右横辺りの板壁の前で、前腕(ぜんわん)の三分の一ほどを残して‥その先が切断された様にぷっつりと途切れている‥ぼくの右手だった‥‥。

「 大丈夫??ヒカリさん!? 大丈夫なの!?? 」 セナが半泣きの声で聞いて来た。
ぼくは彼女にすぐには返答せず、自分の目の前にあるこの光景が、一体何を意味しているのか‥‥しばらく考えていた。

痛みはまるで無かった。消えている指や腕の感覚も、ちゃんと残っている気がする‥‥‥。
「 だっ‥ 大丈夫。落ち着いて。 手は、切れたり千切れたりしているわけでは無さそうだ 」
ぼくは、慌(あわ)てているセナを落ち着かせるため、そして何よりも自分の平静さを失わないために、彼女と自分自身に向かってそう言った。
「だったら、その右腕の無くなっているみたいに見える先の方は、一体どうなってるの?? 」

「 ‥‥‥たぶんこの壁板を‥ 通り抜けてるんだと‥ 思う‥‥ 」 ぼくは、やはり平然とした口調で答えた。しかしその考えは、たった今頭の中に閃(ひらめ)いたばかりの思いつきで、実は何の根拠も無いものだった。
セナが近づいて来た。右手はもちろん、それ以外の他の部分も動かすことを控えているぼくの体の右側から回り込んで、板壁に接する形で途切れているぼくの右手を、身を乗り出す様にしてまじまじと観察した。

「 本当だ‥ 腕が壁の板にきれいに刺さって、その先が向こう側へ消えている感じ‥に見える 」
「 ああ‥ その通りだ 」 セナの言葉に、ぼくは相槌を打った。
「 だったら‥ 」 セナは小さく首を捻(ひね)る。 「 だったら、ヒカリさん‥ 右手を押すか引くか、どちらかに動かしてみたら‥どうなるかしら? 」 そう言って、ぼくの目を覗き込む。
「 ‥ ‥ああ そうだ‥よね 」 すでにそのことは、ぼくも考えている。考えてはいたのだが、消えかかった自分の前腕に痛みも違和感も、刺さっているのならそれなりの圧迫感みたいなものも‥、何も感じていないのがかえって気味が悪かったのだ‥‥‥‥

「 やってみる 」 ぼくはその一言を発して踏ん切りをつけ、早速右手をゆっくりと引き寄せ始めた。
引いて‥、引いて‥、少しずつ引いて‥、自分の感覚では前腕の半分の長さほど引き寄せたつもりだったのだが‥‥、驚いたことに途中で途切れている腕の部分の位置も、接している板壁からの距離も、まったく変化を見せなかったのだ。言わばぼくの動作が、すっかり空回りをしている感覚だった。

全身から‥ 冷や汗が噴き出すのが分かった‥‥‥‥

次回へ続く