ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (50)

最終話「夕暮れ」 その十
三島由紀夫の短編小説「憂国」は、二・二六事件で仲間たちの決起から外れた形となった陸軍中尉が、勅命に従い反乱軍を討伐するという立場、状況に煩悶し、新婚の妻と共に自決するお話です。
背景となる思想や政治に重きを置いたものではなく、恐らくは特有の美意識、美学が描かれている作品だと思います。
身支度から切腹までの克明な描写。夫の最後を見届け、自らも後を追う新妻の、夫への信頼と若き肉体。自刃の際の苦痛、流れる血の色彩が伝わってくる感覚です。

この小説が特異な存在に思えるのは、発表から数年後、作者自らの制作・脚色・監督・主演で映画化がなされているからです。
自らが創造した話と人物を、(しかもある意味つき詰められた文学作品を)、自らが演じるという事は、一体どんな意味を持っていたのでしょうか?

三島氏が小説のなかに描き出そうとするものは、自身への問いかけであるだろうし、答えであるだろうし、理想であったかもしれません。
映画化は、文字によって描き出された認識や理想を、演じる事によって自らが追体験していくという行為を、氏にさせたのです。
この時点で三島氏は、「割腹自殺」を体験し、「死に際の美」に新たなる演出を加えていたかもしれません。

三島氏は、ボディビルで鍛える事によって美しい身体を手に入れ、自らを更なる理想に近づけていった様に、自身の生き方を自らプロデュースしていった、またそれが出来た人間だったのかと思います。

「事件」自体に対しての考察には到底至りませんが、前にも述べた、三島氏が「演者」でもあった事が、「三島氏の進んだ道の道標」の一つであると、今一度記しておきたいと思います。

次回は、別冊付録です。

 

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (49)

最終話「夕暮れ」 その九
タイトルは思い出せませんが、70年代後半に読んだ横尾忠則氏のエッセイの一冊に、三島由紀夫氏や美輪明宏さん(当時は丸山明宏)が登場します。
魂を揺さぶる声、歌声は今も健在の美輪明宏さんですが、この時興味を覚えてから、美輪さんがお出になる対談やトーク番組は好んで観る様になりました。
美輪さんが、交友のあった三島氏とのエピソードを語る事もしばしばで、(ちなみに
江戸川乱歩の「黒蜥蜴」を美輪さんが舞台で演じた時、その脚本を三島氏が書いた事は、ご存知の方も多いでしょう)印象に残っているものをいくつかご紹介しましょう。

三島氏が美輪さんのお店に来られた時の事だったのか・・現れた三島氏が、服に着られている風に見えた美輪さんは、彼の服を手探りしながら、「どこ?三島さんはどこにいるの?」と、からかったそうです。
コンプレックスを指摘された形となって、機嫌を悪くした三島氏は帰ってしまい、この事がきっかけとなったのか、以降三島氏は、ボディビルで体を鍛え始めたと言います。
己の心と体の脆弱さを克服するべく、美しい肉体を手に入れる事は、その後の三島氏の行動に変化をもたらすものだったかもしれません。
鍛えられた肉体は、俳優として主演した映画の中で、あるいはモデルとなった写真集で披露されました。

もう一つはオカルト的なお話で、ある集まりの席で美輪さんが、三島氏の背後に「軍服を着た男の人が見える」と指摘します。三島氏がそれは誰かと問うと、美輪さんは、「心当たりのある名前を挙げてみなさい、当たっていたら消えるから」と返します。三島氏が何人かの名前を言っていき、「・・磯部か?」と呟いた時、美輪さんが反応し「それ、その人!」と答えたそうです。
三島氏は動揺します。「磯部」とは、二・二六事件の反乱軍の首謀者の一人「磯部浅一」の事で、事件後処刑された人物です。
三島氏が学習院初等科に在学中、二・二六事件は起こりました。氏はこの事件を題材にした作品をいくつか、すでに書き上げていました。
「憂国」はそれで、私が「三島氏の進んだ道を辿ってみる時の道標」の一つではないかと考えている小説です。

次回へ続く