悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (92)

第三夜〇流星群の夜 その六

だいぶ後になって彼女から打ち明けられた話だが‥‥‥‥‥
彼女の母親が都内の自宅で亡くなったのは、大学での一件があってから丁度十日たった朝の事だったらしい。

前日は日曜日で、彼女は両親と家族三人揃って夕食を済ませたそうだ。
彼女の母が体の不調を訴え始めたのは夕食の後片付けの最中で、母は「何だか体が怠(だる)くて重たい」と、居間のソファーに座り込んでしまったらしい。
彼女と彼女の父は当然、母が単純に疲れているだけだとは思わなかった。既に情報として周知されていた「謎の病」の症状が、まさしく倦怠感(けんたいかん)だったからである。
嫌な予感しかしなかった彼女は、すぐに救急に電話しようとスマホを手にした。しかし、父はそれを制した。
彼女の父は大手製薬会社に勤務していて、「謎の病」に関しては一般の人間よりも遥かに多くの情報を持ち得るポジションにいたらしい。その父が黙って首を横に振り、娘を見つめた。
「取り敢えず‥・母さんをベッドまで運ぼう。手伝ってくれるかい?」

二人ががりで母をベッドに寝かせると父は傍らに跪(ひざまず)き、母の片手を取って、自らの両手で優しく包み込んだ。
「心配はいらない。ゆっくり休むといいよ」父の言葉に母は小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じていった。
彼女は、母の体の動きや反応が見る見る緩慢(かんまん)になっていくのを強く感じていた。彼女も母の手を取りたかったが、ずっと体も手も小刻みに震えていて、目から涙が溢れ出していた。それを母に悟られまいと彼女は、隠れる様に父の背中に顔を押しつけ嗚咽(おえつ)し続けたそうだ。
家族三人は‥‥‥、日付が変わってやがては空が白むまでそうしていた。
父が背中にしがみついていた彼女に向き直り、彼女の肩にそっと手を置いた。彼女は泣きはらした目で父を見、横たわる母を見た。今まで父が握っていた母の片方の手が、少しだけ宙に浮いたままの状態で静止していた。母の体が、すっかり硬くなっているのが分かった。

「‥お母さんは‥‥生きてる?」震える声で彼女は父に問いかけた。
父はそれには答えず、代わりにこう言った。「これから、父さんが考えている事をおまえに話しておく。聞いてくれるかい?」
彼女は小さく頷いた。

「父さんには今世界で広がりつつある病気が、感染症だとは思わないし、人がその原因を突き止めて治療できる病気だとも思わない。だから昨夜(ゆうべ)おまえが救急車を呼ぼうとした時、止めたんだ。母さんは連れていかれて隔離されるだろうし、もう会えなくなる可能性があったからね」
彼女は父の言葉に少なからず納得した様に、傍らのベッドに横たわる母を見た。
「父さんは仕事の関係上、今回の病気の件で数えきれない程の情報を集めてきた。病死したとされる遺体の解剖データや報告、所見なども入手し、分析してみた。それが驚いた事に、未だに満足な解剖も出来ず、僅かな細胞サンプルすら採取するのも難しいらしいんだ。レーザーメスやダイヤモンドカッターでさえ、硬くなった遺体に傷ひとつつけられないでいる。それが現状らしい。信じられるかい?石の様だと言うが、石より硬い。この世に砕けない石など存在しないはずだからね‥‥・」父は少し間を置き、ここからは自分の直観とイマジネーションから導き出した推論だと前置きした上でこう続けた。
「父さんは‥・、今こうして目にしている異変を病気だとは考えない。これは現象だ。病気にかかって死亡したとされている人々は、何か特別な条件がそろってしまい、我々の今いる世界から乖離(かいり)した状態に陥っているのだと。だから彼らはだだ、石の様に硬くなって動かなくなっただけで、死んでいないのではないかと‥考えてるんだ‥‥‥‥・」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (91)

第三夜〇流星群の夜 その五

僕が‥‥、テレビや新聞の報道やSNSで騒がれていた「謎の病による死」を目の当たり(まのあたり)にしたのは、籍を置く大学、講義終了直後の大教室での事だった。

いつも通りに、中央の教壇から程良く位置をとった長机に腰を据えてノートを広げ、一般教養の講義に耳を傾けていた僕だったが、その日は少し見える景色が違っていた。
この講義には決まって、教壇のすぐ前の最前列の机に陣取る一人の男子学生がいた。僕が大教室に到着した時には大抵、彼は既にその定位置に着いていて、準備をして講義が始まるのを待っていた。小柄で度の強い眼鏡をかけ、いつもパーカーを着ている彼だった。ひどく真面目で熱心な学生に見えた。講義を受けている間中、彼の後ろにいる僕や他の学生は、彼の一挙手一投足が必ず視界に入る。先生(講師)の言葉や黒板を埋めていく文字に反応して、首を細かに上下させ、ノートに向かって熱心に手を動かす様子は、ひどく真面目に見え、講義の終了後に出席カードを出す目的だけの為に席に着いて時間をつぶしている学生もちらほらいると言うのに、まったく頭が下がる思いがしたものだった。
その日、やはり彼もいつも通りに講義に臨んだのだろう。だが、後ろの席から見える彼の頭やパーカーを着た背中は、長い講義の間一度も動くことはなかった。右手にペンを握り、左手は机の上に置いてはいたが、やや前屈(まえかが)みの姿勢で俯いたまま、微動だにしなかったのだ。
僕は、彼が珍しく居眠りをしているのだろうと思っていた。しかし講義終了のベルが鳴って、みんなが教壇脇の机に置いてある箱に出席カードを入れる為に立ち上がっても、彼だけは立ち上がらなかった。やはり同じ姿勢のまま座っていた。さすがに先生も不審に思ったのか(たぶん講義をしている時からそう思っていただろうが‥)、目線を下げて彼に一言二言声を掛けた。

「たっ‥たいへんだ!」
教室を出ようとしていた僕や他のみんなが、先生のそんな慌てる声を聴いて一斉に振り向いた。先生は青い顔をしてバタバタと走り出し、僕達を追い越して教室を出て行った。

そこからキャンパス内はちょっとした騒ぎになった。
救急車が到着し、物々しく防護服を着こんだ人達が彼をストレッチャーに乗せ運び出していった。「皆さん、離れて下さい」と言われながらも遠巻きに見ていた僕は、彼が席に着いていた時と同じ姿勢の状態のままストレッチャーに乗っかっている事に気がついた。彼を包んでいる不透明のビニールシートが、奇妙な形にかさ張り、盛り上がっていたからだ。彼がすでに死んでいたかどうかは分からなかったが、石の様に硬くなっていたのは確かだった。
全学生の携帯電話 スマホに一斉送信があった。教室で起こった事の大まかな説明と、感染が疑われている事例である為の今後の大学側の対処方針などが送られてきた内容だった。その日の予定はすべて中止となり、翌日からしばらくの間大学は閉鎖、学生は自宅待機と言う事態になった。。同じ教室で受講していた学生には特に、今後の体調の経過報告が義務づけられた。

彼が、今世界を騒がせている「謎の病」によって死亡した事実を、正式な報道で僕は数時間後に知った。その時僕の脳裏に浮かんだのは、教室で彼のいた机の脇を通り過ぎた瞬間に目に入った「シャープペンシルをしっかりと握り締めていた彼の右手」だった。
彼の遺体は何処か特別な施設へと収容されただろうが‥‥、彼の右手は今もまだ‥シャープペンシルを握ったままでいるのだろうか‥‥‥‥‥‥
そんな事を僕はぼんやりと考えていた。

次回へ続く