悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (53)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その三十八

彼ら子供たち全員が俺を見た。
構わずにさらに叫んだ。

「大人だって声を出して泣くじゃないか!声を出して何を失うって言うんだ⁉」

叫び声が波紋状に教室の隅々にまで広がっていく感覚があった。
子供たちは俺に視線を向けたまま、一切の動きを止めた。
委員長の目が、叫んだ俺を真っすぐに捉えたのが分かった。
俺が招き込んだ静寂が‥‥・教室を支配した。

彼らが驚いている以上に、俺自身が驚いていた。実は自分で口に出した言葉に自分でびっくりしていたのだ。自分がそんな事を望んでいたのかと知って戸惑っていた。
まったくもって自己中心的で身勝手な話だが、俺は委員長に、子供らしく声を上げて泣いてほしかったのだ。確かにあの時委員長がそうしてくれていたら、俺はその場から逃げ出さなかったかもしれない。そしてその後もずっと彼女から逃げ続けずにいられたかも知れない‥‥‥‥‥‥
要するにずっと俺は、委員長が自分と同じ歳で同じただの小学生であるという確証を持ちたかったのだ。きっとそれは、虫を仕掛けるきっかけとなったあの時の、机の上にいた蜘蛛を見つけた時に一瞬垣間見えた委員長の飾らない無垢(むく)な表情が、あまりにも魅力的だったからなのだ。

「きっとそうだ‥‥‥‥彼女を普通の女の子だと思えていたなら俺は‥‥‥‥‥‥」

口から出たのか出なかったのか分からない程の俺の微(かす)かな呟きに割って入る様に、その時ごく近いところから発せられた幽(かす)かな音が俺の耳に届いた。

ぁー ーぁーぁぁー – –

それは‥‥‥・小さな「あ」の言葉で始まった人の声だった。
紛れもなく委員長の口から漏れ出た‥‥・喉につかえた様なくぐもった声。
委員長のただ涙を溢れさせる為だけに開かれていた両目に、三日月型の表情が現れた。しっかりと結ばれていた口元の力が解けて、徐々に唇が開いていった。

ぁーああーー

委員長が、声を出して泣き出していた。

あああーあああああああああァァゥーーー

今まで俺に集中していた子供たちの視線が、委員長に向けられた。
もちろん俺の視線も彼女に釘付けになった。

あああああああああァァああああああああああああああゥァァァああああああああああああああァァゥゥゥああああああああああああああゥああああああああああああああァゥあああああああああああああああああああああああああうううゥゥゥゥゥゥーーー

声は堰(せき)が切れたみたいに溢れ出した。溢れ出して止まらなかった。
今まで抑え込まれていたものの一気の解放であった。

ああ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あゥあ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あゥォあ˝あ˝あ˝あ˝あ˝ああがァあ˝あ˝あ˝ああ˝あ˝あうゥおあ˝あ˝あ˝ああ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あおおォおおああ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あがうゥゥーおあ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あーァァがあ˝あ˝あうあ˝あ˝あおあ˝あ˝あ˝あ˝あ˝ああおあ˝あ˝ああ˝あ˝あああ˝あ˝あううゥおああァァうゥゥーーー

声は量感を上げていった。
机や椅子、壁や窓ガラスが、ビリビリと震え出した。
子供たちの何人かが顔をしかめ耳を塞いだ。

今や委員長の口は目一杯開かれ、滂沱(ぼうだ)の涙と共にそれに見合うだけの泣き声を放出し続けていた。
俺は驚いてはいたが、見とれていた。委員長のクシャクシャになったその表情に見とれていた。
泣き声を出し始めたせいなのかも知れない。いくら涙を流しても委員長の体は小さくなっていく事はなかった。

ミシッツ‥‥ミシリ‥‥‥‥‥
委員長に向けて立て掛けてあった姿見の鏡の全部に突然亀裂が入った。
パシーン! パシ!パシーン!
次の瞬間には様々な大きさとなって割れ落ち、飛び散った。
子供たちが慌て出した。
教室にある全てのガラス、窓ガラスに、鏡と同じ様に亀裂が入り始めた。
ミシ‥ミシミシリ‥‥ミシミシミシミシミシミシ‥‥‥‥‥‥ピシッ!
「窓ガラスが割れる!」「割れる!」「割れたら!外の土が入って来るぞぉ‼」
子供たちが叫びながら右往左往している。

そして‥‥‥‥‥その通りになった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (52)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その三十七

「いい考えがあるよ!」彼ら子供たちの一人が手を挙げた。

胸が絞めつけられる様な委員長の姿を前に、何もできないでいる俺。彼女を救う何の手立ても思いつけない俺をよそに、彼らが動き出した。
俺を映すのに使っていた姿見の鏡をふたたび持ち出してきて、へたり込んでうなだれたままでいる委員長の左側にその四枚全部を連ねて並べた。
「今度は‥‥何をするつもりなんだ?」嫌な予感がして俺はすかさず問い質した。
「あの子には、もっともっと涙を流してもらうんだ」「そうすれば、もっともっと小さくなって‥」「最後には消えてなくなるかもしれない‥‥‥」
「いいだろ?その方が」「あの子が消えてなくなった方がいいだろ?」
俺は閉口した。
彼らの意に添わぬ者への排斥感情は、ひたすら純粋だった。
自分自身もかつては彼らと同じ「危うい純粋さ」を振りかざして行動していた事を空恐ろしく思った。

止める間もなかった。彼らの一人が委員長に近づいて行き、肩を軽く叩く。
「ねえねえ‥見てごらんよ。鏡があるよ。ねえったら‥」
それまでまるで時が止まったみたいにうなだれたまま動かなかった委員長の体が、ビクッと震えた。そしてゆっくりと顔を上げる。
「ほうら、こっちこっち」鏡を支えている子たちが声を掛ける。
委員長の虚ろな目が‥肩に触れた子を見上げ、そして首を斜めに傾(かし)げて鏡の方を見た。
「ほうら見て。映ってるよ」一人が言った。
「ほうら見て。全部映ってるよ」もう一人が言った。
委員長の目に僅かに感情的な光が宿り、立ち並んでいる鏡に視線が定まった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
委員長は、これまでに自分の身に起こった事を再認識しているのだろう、鏡に映るその姿をただ無言で見つめていた。

「しっかり見て。何もかも映ってるよ」別の一人が言った。
「そう、何もかも‥‥」さらに別の一人。「その見っともない頭の‥‥‥‥‥」

「丸いハゲも!

言葉の最後は彼ら全員が見事に声を揃えた。そしてリズムをつけた中傷の二文字が教室に響き渡っていった。
「ハーゲ!」「ハーゲ!」「ハーゲ!」「ハーゲ!」「ハーゲ!」「ハーゲ!」
委員長の顔が悲痛の色に染まり、歪んでいくのが分かった。真一文字に結ばれた口元にぐっと力が込められ、見開かれた二つの眼(まなこ)から見る見る涙が溢れ出し頬を伝って落ちた。
一切泣き声を上げないし、しゃくり上げる事すらしない。ただ涙だけがとめどなく溢れ、そして落ちていく。

「ああ‥‥」俺は呻(うめ)いた。
あの時の委員長だ。あの時の委員長が目の前にいる。
堪(こら)えて、ひたすら堪えて、悲しみが去るのを待っている‥‥‥‥。
彼女は自分自身の内にある何かを守ろうとしているのだと、その時初めて気がついた。それがプライドなのか、彼女の生い立ちに関係する戒(いまし)めなのか、俺には分からない。しかし健気(けなげ)で真っすぐな彼女の心根だけが痛いほど伝わってきて、ただただ辛い。いたたまれない。
両足が震えた。固く握りしめた拳が汗でびしょびしょに濡れていた。この場から逃げ出したいが、それは絶対にできない。やり直すんだ。やり直すために今ここにいる。そうだろう!‥‥‥‥‥‥‥‥‥

いいんちょう!」
俺は叫んでいた。

声を出せ!声を出して泣くんだ!ありったけの、声を出して泣いてくれ!」

次回へ続く