悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (115)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その二

ぼくとモリオのいる場所から数メートル離れた、右手の小さな木陰で休んでいる女子三人のグループ。
背が高くて大人っぽい雰囲気のフタハと、活発でおしゃべりなミドリ、そしてもう一人‥‥‥。ぼくが気にかかり、目が離せなくなっていたのは三人目の彼女だった。彼女は、かつてぼくがよく知っていた『女の子』の記憶を、ぼくに思い起こさせていた。

「もしかして‥‥‥ソラ‥なのか?」
知らぬ間に、僕の口からそんな言葉が漏れ出ていた。

「‥‥あの子の名前は ソノ。『ソラ』ではなくて、『ソノ』だよ‥・」
チョコレートで口の中をいっぱいにしながら、もそりとモリオが言った。どうやらぼくの呟(つぶや)いた声が聞こえていたらしい。
「あ‥ああ、そうだった!ソノだ。ソノだったよな」ぼくは慌ててごまかしていた。
ぼんやりと思わず口に出してしまった名前だったが、改めて自分の弱さを認識し、恥じ入った。

「さっきから見てるみたいだけど、転入生が気になるのか?」
モリオに言われてすっかり思い出した。彼女は新学期に入って早々クラスに転入して来た、ツジウラ ソノだった。
「違うんだ。違うよ。ほら‥まだ話したこともないし、見慣れてもいないから‥気になっちゃってさ」
「そうだよなあ。ちょっと変わった子みたいだし、あんまり人と話したがらないらしいし‥‥」
「きっと転入して来たばかりで緊張してるんだよ。それに、ただの人見知りなのかも知れない」
「そうだな、きっと。フタハもミドリもお節介(せっかい)で、そういうのを放っておけない質(たち)だからなあ」
「ああ‥まったくだ‥‥」ぼくはそう相槌(あいづち)を打って、この話を終わらせる様に彼女たちから目を逸らした。

鮮やかな色彩が眩(まぶ)しい菜の花畑には、暇を持て余した子たちの黄色い声が響いていた。
見ていると、白い布切れだろうか、まるで日なかの人魂(ひとだま)みたいにゆらゆらと舞った。誰かが虫取り網を持参していて、花に集まった蝶を追いかけているのだ。たぶんタスクに違いない。タスクが虫取り網を持っていたはずだ。
しばらくすると、素早い動作の虫取り網がもう一つ現れて、あっと言う間に蝶を網の中に収めた。柄(え)が短くて取り回しが良く、網の部分が大きい特別な捕虫網で、その持ち主は風太郎先生だった。風太郎先生は虫好きで生態にも詳しかったので、女子はともかく、男子には絶大な人気があった。
「すっげえ!先生」「見せて!見せて!」風太郎先生の周りには、あっと言う間に人だかり(全員が男子)ができた。

賑やかなのはそこだけではなかった。花畑全体を利用して、鬼ごっこやらかくれんぼを始めた連中がいる。タキやアラタたちで一番エネルギッシュな奴らだ。「あなたたち!」花を損(そこ)ねないでと葉子先生が何度も注意をしている。
突然、花畑の中を鬼から逃げ回っていたタキが、鬼をからかうつもりでか、大声で歌い始めた。
「なのはああなばたけえにィいいりいいひうすれェェえ」

菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし

「みわたああすやまのおはァかあすううみふかしィィ」
タキの歌声は、ぼくとモリオのいるところまではっきりと聞こえてきた。
「あぁこれ、菜の花畑の歌だね」モリオが言った。
「違う違う。そんなのないよ。朧(おぼろ)月夜だろ」ぼくが訂正した。

春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し

驚いた事に、新たな歌声がすぐ近くから聞こえて来た。
決してふざけたものではなく、朗々とした女の子の、女の子たちの声。
フタハとミドリが互いを見合いながら歌っていた。楽しそうな歌声だった。
ぼくはおそらく呆れ顔で彼女たちを見ていただろう。
「女の子はこれだ‥すぐにつられてマネをする」モリオも呆れてそう言った。

里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路を たどる人も

女の子の歌声にもう一人が加わった。

蛙(かわづ)のなくねも かねの音も

加わったのは紛(まぎ)れもなく、ツジウラ ソノだった。
ぼくが意識して初めて聞く、彼女の声だった。フタハやミドリよりもよく通る、透き通った声だった。

さながら霞(かす)める 朧おぼろ)月夜

ぼくの心が‥‥震えていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (114)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その一

久しぶりの遠足だ‥・と思った。

いつ以来だろうか?
結婚してから‥初めてなのは間違いない。それ以前だったら‥‥高校生の時まで遡(さかのぼ)るだろう‥‥‥‥‥
そんな事を考えながら歩いていると、並んで歩いていたモリオが、ぼくのリュックサックをつまんで引っ張った。
「ヒカリは、どんなおやつ持ってきた?お弁当は何?」
そんなモリオを横目で見て、「ああそうか‥」と思った。これは小学校の遠足だ。それも低学年の、おそらく二年生だろう。
ぼくも、おそらく小学二年生に違いない。周りの風景を映す目線が随分(ずいぶん)と低く、両足が刻んでいる歩幅も小さい。

「おやつはいろいろだけど、お弁当はサンドイッチにしてもらった」と、ぼくは答えていた。「モリオはどうなの?」
「お弁当は三色おにぎりだけど、おやつはチョコを五種類買って持ってきた」
嬉しそうに話すそんなモリオに、ぼくは忠告する。「チョコレートは溶けちゃうよ。食べる頃にはきっとべとべとだ」
「わかってないなあヒカリ。それがいいんだよ。それがうまいんじゃないか」
両手や口のまわりをチョコまみれにして食べているモリオが目に浮かんで、ぼくは少しだけおかしかった。

「うわぁあ!」
ぼくたちの前を歩いていた女の子数人が突然歓声をあげた。
クマザサが両わきに茂った山道が途切れ、前方に開けた野原が現れていた。野原は一面の菜の花で、眩(まぶ)しい黄色に輝いていた。

「みなさーん、ここで少し休憩にしまーす」引率の教師の一人が全員に声をかけた。担任の葉子先生だ。後の二人も口を揃(そろ)えた。名前は忘れたが話好きの教頭先生と、教師になったばかりでまだ大学生みたいな副担任の風太郎先生だ。「気温が上がってるので、必ず水分補給をしましょう」「おやつをつまんでも構わないけど、お弁当前なのでほどほどにしましょうね」
黄色い声を上げながら、みんな思い思いの場所に散らばっていった。ぼくとモリオは傾斜を少しだけ登って、野原の菜の花全部が見渡せる絶好のスポットに腰を下ろした。先生の忠告に従い、水筒を肩からはずしてコップのふたに中身を注ぐぼく。モリオはリュックに差してあったペットボトルを取り出すと直接口をつけてノドを鳴らし始めた。
「‥元気だねェ」菜の花畑を走り回る数人の子たちを呆(あき)れた様に見下ろしながら、モリオはさっそく『一種類目のチョコ』を平らげ始めた。
ぼくはと言うと‥‥、実はさっきから奇妙な感覚に囚(とら)われている。数メートル離れた右手の小さな木陰にやはり腰を下ろしてくつろいでいる『女子三人のグループ』がなぜか気にかかり、目が離せなくなってしまっていたのだ。

「もしかして‥‥‥ソラ‥なのか?」
知らぬ間に、ぼくの口からそんな言葉が漏れ出ていた。

次回へ続く