悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (125)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十二

サンドイッチのお弁当は残さず胃の中に収めたものの、消化の始まった合図みたいなあの独特の微睡(まどろ)みが、今日のぼくには一向に訪れる気配はなかった。おそらく、隣にいる女子たちから聞こえて来た『人の手に見えるバッタ』の話に気味の悪い想像を働かせてしまったのが原因であろう‥‥‥‥‥

ぼくは、「どうだい‥腹ごなしに散策でもしてみないかい?」と傍らにいるモリオに声をかけてみた。赤い花の存在を確かめる目的の『例の探検の計画』の実行を早速提案してみたのだが、彼は大きなあくびをしたかと思うとごろんと草の上に横になり、「今は無理‥」と一言返して目を閉じてしまった。
「そうか‥‥」ぼくは落胆の小声で了解を伝えると、やはり自分だけで行動すべきなのだと改めて思った。
取りあえず、ひとりでまた駐車場まで行ってみようと考えて立ち上がり、リュックはその場に置いたまま、本当に眠ってしまいそうな様子のモリオに背を向けて歩き出した。

開放感でいっぱいの芝生広場は、そこかしこでそれを満喫する生徒たちの貸し切り状態だった。
虫取り網を両手に握りしめたタスクが、それを振り回しながら前方を走り抜けて行った。シロツメクサが群生した場所では女子数人が、四つ葉のクローバー探しに夢中になっていた。
いつも走り回っているイメージしかないタキやアラタたちはてっきり鬼ごっこの続きを始めているかと思いきや、誰かが持参してきたものであろうトレーディングカードを芝生の上に広げ、前かがみの車座になって神妙な顔つきでゲームに興じていた。「まったく今時の小学生ときたら‥‥」ぼくはそう呟き、苦笑いをしながら彼らの横を通り過ぎた。

駐車場の手前まで来た所で、立ち話をしている葉子先生と教頭先生に出くわした。
「車があるんだし、ここに来ている事は絶対間違いないんです。やっぱり何かあったんでしょうか‥‥‥」
「うーむ‥‥‥‥」葉子先生の言葉にしばらくの間黙り込む教頭先生。眼鏡の奥の目が細められ、苦悩がにじみ出る。水崎先生の姿が見えない事態は、未(いま)だ解決されていない様である。
「私、もう一度携帯に掛けてみます」そう言いながら、中折れ型の携帯電話を取り出す葉子先生。
「そうしてください。何度でも、掛け続けた方がいい」彼女を促す教頭先生だったが、その時、ぼくが近くにいる事に初めて気がついたらしい。コホンと咳払いをして葉子先生に目配せし、二人してその場から立ち去って行った。
先生たちにとって‥否(いや)、ぼくたちみんなにとってもこの事態はきっと、かなり深刻なものなのかも知れない‥と思った。
「ふぅ‥・」ぼくはため息みたいな言葉をひとつ口から吐き出して、再び駐車場へと足を踏み入れていった。

と、その時である。音楽が‥‥、微かなメロディーが‥また聞こえた気がした。
思わず足を止め、耳を澄ます。「‥‥‥‥‥‥‥‥」

確かに聞こえている。間違いない。
ぼくは音が聞こえてくる方向を全身全霊をかけて探りながら、ゆっくりと、歩を進めていった。
やはりその方向は北側‥‥で間違いない。駐車場の柵の外の‥果てしなく生い茂る草木の‥そのどこかから‥だ。

「‥わ‥・ら・べ・は・みいたありぃぃぃ‥‥‥」
「えッ?!」
突然すぐ横から、今度は女の子の歌声が聞こえてきた。ぼくは心臓が破裂しそうなほど驚いた。
見るとぼくの右手前方の柵の前、一人の女子がぽつんと立っていて、柵の外を見つめながら歌を歌っている。

「わ・ら・べ・は・みぃたぁりぃぃぃ の・な・かぁのばぁぁぁらぁ‥」

「童は見たり‥・野なかのバラ‥‥・」ぼくは聞き覚えのある歌詞を復唱していた。そしてその時気がついたのだ。微かに聞こえていた音楽も同じ曲で、歌っている彼女はそのメロディーに合わせて歌っているのだと。
ぼくはしっかり確かめるために彼女を見据えた。

そこにいて歌っていたのは紛れもなく‥‥‥『ツジウラ ソノ』だった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (124)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十一

「君たちが言っているのは‥‥昆虫の擬態の事かい?」
僅かの間逡巡(しゅんじゅん)する様子を見せていた風太郎先生だったが、女子たちに向き直りそう聞き返した。

「ギタ・イ?」「ギタイって言うんですか?そんなのを」
「実際に観ていないから確かな事は分からないけど、そんな風に聞こえるね‥」
そう前置きした彼は、『擬態』について早速説明を始めた。「昆虫に限った事ではないんだけど、何かの都合や目的があって、別のものに姿を似せたり成りすましたりする状態をそう呼んでいる」
はたして理解しているかどうかは不明だが、女子の何人かが曖昧に頷いて見せた。
風太郎先生は続ける。「バッタではないけれど‥・例えばカマキリにはその姿がまるで木の葉や花に見える仲間がいてね、勘違いして近寄ってくる他の虫たちを待ち伏せして捕食する。つまり彼らは効率良く虫を捕まえて食べるために、自分の外見を葉っぱや花そっくりに似せているわけなんだ」
「へーえ、すごい。頭いい」
「また虫たちにとっては、鳥や他の動物に食べられないよう身を守るための工夫でもあってね、色や形を周囲にとけ込ませる事で見つけられにくくするカモフラージュの意味もある」
「ふーん」「そうなんだ‥」
すぐ傍らで彼らのそんなやり取りを全部聞いていたぼくとモリオは、「まるで理科の授業中みたいだなぁ」と顔を見合わせた。

「だったら先生、人の手に見えたバッタはどんな意味の擬態だったの?」
「‥それなんだけど、やっぱり実際にそいつを観てみない事には何とも言いようがないなあ‥‥‥」

「バッタじゃなくてさ、最初っから本当の人の手だったんじゃあないの? 手以外は草の中に隠れてたんだよ、きっと‥」モリオが、彼女たちや先生には聞こえない様に声を落として言った。
「そうだよな。それが一番真面(まとも)な考え方だよ」ぼくも声を落としてモリオに賛同した。                        
しかし賛同した次の瞬間、丈(たけ)高く茂っている草むらの中に静かに身を潜め、刃物を握った手だけをそこからスッと出して構えながらこちらの様子を覗(うかが)っている黒い人影のイメージが頭の中に浮かんできて、急に背筋が寒くなった‥‥‥。

次回へ続く