悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (127)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十四

「聞こえてくるこのメロディーの正体‥分かった気がする!」
ぼくは、ツジウラ ソノにそう言い置いて駆け出していた。

駐車場を飛び出し、芝生の上のここまで来た道筋を逆さに辿るみたいに走って行った。辺りを見回しながら、葉子先生の姿を探し求めた。
芝生広場の東側まで来ると、丁度その辺りがハルサキ山全体の最頂部に当たり、周囲がすっかり見渡せた。くるりと視線を回転させていくと、南東に少し下った窪地の様な場所にひとりポツンと立つ葉子先生を発見した。
「ああっ、やっぱり!」
見つけた。そして、考えていた通りだった。彼女はこちらに横顔を向け、左手に持った携帯電話を耳に当てて僅かに顎を上げ、焦点の合っていない目で中空(ちゅうくう)を見つめていた。
「葉子先生ーっ!」ぼくは呼びかけながら、小走りで彼女の方へ近づいて行く。
葉子先生は驚いた顔でこちらを向き、携帯電話を耳から外した。
「葉子先生っ‥今!水崎先生に電話をかけてましたよね!」
虚を突かれた戸惑(とまど)いの表情のまま、彼女は小さく頷(うなず)いた。

今起きている事の辻褄(つじつま)を、すぐにでも確かめたかった。
一方的に自分の考えを葉子先生に話して聞かせ、相手がそれを理解できたかどうかなどお構いなしにほとんど勢いだけで、彼女を駐車場まで連れ出す事に成功した。

駐車場にはツジウラ ソノがちゃんと残っていて、丸太に模したコンクリート製の柵に両手を置いた姿勢で、そこを境に北側に向かって傾斜しながら果てしなく広がっている草木の茂みを静かに見下ろしていた。
ぼくは葉子先生をその柵の前まで案内した。そして、「もう一度、水崎先生に電話をー」と彼女を促そうとした時、怪訝(けげん)な顔をした教頭先生が駐車場に姿を現してこちらに向かって歩いた来た。おそらくぼくと葉子先生が連れ立って急ぎ足で歩いて行くのを見かけ、後をつけて来たのだろう。
「どうか‥されたのですか?先生」教頭先生が葉子先生に問いかけた。
「ああ、教頭先生。実はこの子が、水崎先生の居所がわかるかも知れないと言うもので‥‥」
それを聞いた教頭先生の顔の怪訝さがさらに五割ほどアップし、葉子先生の傍にいるぼくを睨みつけた。
「どういう事か説明しなさい」
教頭先生のその言葉には、『端(はな)から子供など信用するものではない』と言うニュアンスが感じられた。ぼくは、ここで説明してもどうせ信じてもらえないだろうと直感し、論より証拠、歴(れっき)とした事実を目の前に提示するのが一番の近道だと考えてこう言った。
「とにかく葉子先生、ここで水崎先生に電話をかけてみてください。そうしたら、ぼくが何を言おうとしていたか分かると思います」
葉子先生は教頭先生と一瞬顔を見合わせたが、ぼくの言葉が真剣であると判断したのか、携帯電話のボタンに、おそらくリダイヤルのボタンに、指をかけた。

数秒の‥‥タイムラグがあった‥‥‥‥‥
そして次の瞬間、ぼくの考えが間違ってなかった事を証明してくれるメロディー『野ばら』の電子音が、広大な茂みのどこかから流れ出して来た。
ぼくはホッと胸を撫で下ろした。葉子先生と教頭先生はビクリと反応し顔を上げた。聞こえて来た『野ばら』が、水崎先生の携帯電話の着メロである事を二人は悟った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (126)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十三

歌曲『野ばら』は、ゲーテの名詞にシューベルトやベートーヴェンなどの名立たる音楽家が曲をつけたもので、複数のバージョンが存在する。
日本では、近藤朔風の日本語訳詞で歌われるシューベルトとヴェルナーのものが広く知られていて、同じ歌詞ながらそれぞれが異なる趣(おもむき)の二曲である。
ツジウラ ソノが今歌っていたのは、4分の2拍子の軽快な印象の、シューベルトが作曲したバージョンであった。

「ねっ、ねえ!」ぼくは思わず、駐車場に佇(たたず)むツジウラ ソノに声を掛けていた。
彼女はすぐに振り向いてこちらに身体を向け、驚いた様子もなく真っすぐな瞳でぼくを見た。
「あ‥‥」そしてぼくはその時になって初めて気がついた。転入して来たばかりのツジウラ ソノと二人きりで面と向かって話すのは、これが初めてだと‥・。

「ヒカリ‥‥くん?」
彼女はぼくの名をちゃんと覚えていて、他の女子達が呼ぶ様にぼくをそう呼んだ。
「あ‥・うん‥‥‥」
ぼくは、ツジウラ ソノの醸(かも)し出す雰囲気がやはりどこか『ソラ』を連想させる、と改めて思った。たぶんぼくはしばらくの間、彼女の姿をまるで呆(ほう)けた様子で眺めていたのだろう。彼女は小首を傾(かし)げて、怪訝(けげん)な表情でぼくを窺い始めた。

「あっ、ごめん。きっ、きみの歌ってた曲のことが、きっ、聞きたくて‥・」
「‥野ばら‥‥のこと?」
「あっ、うん。どうしてその曲を歌っていたの?」
ぼくの唐突な質問に彼女は表情を少しくずし、駐車場の柵の外、草木が生い茂る北側の広がりを漠然と指差してこう言った。「あっちの方から突然、野ばらの曲が聞こえて来たの‥‥。それでつい‥‥歌っちゃった‥」
やっぱりそうか!前に聞こえて来た微かな謎の音も、さっき聞こえていたメロディーも、野ばらの旋律だったのだ。
「それにしても君は、よく野ばらの詩と曲を知っていたね。合唱部で教わったの?」
このぼくの質問にツジウラ ソノは、なぜか虚を突かれたような表情を浮かべた。そして明らかに戸惑いながらこう答えた。「誰にも‥‥教わっていない‥‥‥。気がついたら‥‥知っていた‥‥‥‥の‥」
「気がついたら‥‥知っていた?」僕はその不可解な答えの彼女の言葉を、思わず繰り返していた。

とその時である。
「え?」
「あっ」
唐突にふたたび、広がる茂みのどこかから、野ばらのメロディーが聞こえ始めた。
ぼくは急いで駐車場の柵まで走って行って、そこから身を乗り出す様にして、聞こえてくる場所を特定しようと試みた。そして必死で耳をそばだてているうち、音が電子音で、『携帯の着メロ』ではないかという考えが頭を過(よぎ)った。

心配顔の葉子先生が、水崎先生に連絡を取ろうと携帯電話を何度も掛け直している場面が‥‥‥頭の中に浮かんでいた。

次回へ続く