悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (143)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その二十八

童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)
清らに咲ける その色愛(め)でつ

「‥‥‥‥‥‥‥‥」
ぼくは言葉を失い‥‥、ただそれを見上げていた。

飽かずながむ 紅(くれない)におう
野なかの薔薇

それは、ツタの葉で覆われた巨大迷路の北側の外壁(そとかべ)にぶら下がっていた。
2メートル余りある外壁の上部に、両足を向こう側に折るかたちで、つまり‥鉄棒に膝を曲げて足だけでぶら下がっているみたいに‥、二本の手をだらりと垂(た)らしてぶら下がっていた。
目と口が開いたままの逆さまの顔がこちらを向いている。当然垂れ下がっている長めの髪の毛は、明らかに女性のものである。しかし、誰であるのかが判別できない。判別を困難にしていたのは、全てが赤く染まっていたからだ。
恐らくは血の赤が、流れ出した血液が、逆さまの上半身を染め上げたのだろう。

しかし、ぼくが第一印象で女性の体を『大きな赤い花』だと感じたのは、赤く染まった上半身を見たからではない。大きな赤い花は、女性の腹部あたりにその大輪を咲かせていたのだ。
腹が見事なまでに切り裂かれていた。内臓が、大腸と小腸が、今にも溢(あふ)れ落ちんばかりにそこから顔を出している。とぐろを巻いた大小の腸。そのピンク色のぐるぐるに、赤い血が絶妙な彩色(さいしき)で絡(から)みつき、幾重(いくえ)もの花弁を持つ正(まさ)しく『大輪の赤い薔薇』が仕立て上げられたのだ。

「やっぱり‥‥‥水崎先生‥‥なのか‥‥‥」ぼくの目線はいつしか、女性の垂れ下がった左手の上で止まっていた。その手の人差し指と中指が、途中から欠落していた。
ぼくは小刻みに震えている手をポケットの中に入れ、拾った二本の指を取り出してみた。しかし、もはやそれが何の役にも立たないことを悟り、力が抜けたみたいに、ポトリ、ポトリと、足元に落とした。

ぼくは考えてみた。
人の腹を裂き、壁に逆さまに吊り下げることに、何か意味があるのだろうか?
当然‥答えは出ない。当たり前だ。ただ痛いほど感じ取ったのは、水崎先生をこんな目に遭わせた犯人の狂暴性と、ぼくとみんながいるこの場所の計り知れない危うさである。

「手遅れにならないうちに、このことをみんなに知らせないと‥‥」
そうだ、そうなのだ。もはや悠長(ゆうちょう)にこの遠足の継続を願ってばかりもいられない。教頭先生にも進言して、一刻も早く迎えのバスをよこしてもらおう。

ぼくがそんな判断を下して壁の前から退こうとしたその刹那(せつな)、外壁の向こう側で何かが動く気配がした。
ドスン!ドスバシ!バサリバサササァァーッッ
壁にぶら下がっている水崎先生の赤い花(死体)の隣に、新たな赤い花がぶら下がった。
やはり腹を裂かれ、血でまみれた逆さまの人間‥‥‥‥‥‥
だが、今度はそれが誰であるのかすぐに分かった。

メガネは外れてはいたが間違いなく‥‥‥、教頭先生だった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (142)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その二十七

頭で考えていたほどの時間を要する事もなく‥‥ぼくは目的地に到着していた。

ずっと‥『こんもりした緑の小山』と呼んでいた場所‥‥‥‥。
しかしその頃には厚い雲が空全体を覆(おお)い、辺りもすっかり日陰の領域に飲み込まれていて‥‥、目の前の『緑の小山』は、得体の知れないどす黒い塊(かたまり)に見えた。

数メートルの距離を置いて、しばらく足が竦(すく)んで動けないでいた。
小学二年生の今のぼくの目線に対してまるで立ちはだかる『壁』の様にそれはそびえている。たくさんの樹木が密集した膨(ふく)らみで構成されているのではなく、ツタの葉でびっしりと埋めつくされた垂直に立った面(めん)の連なりで出来ていて、その平らさは明らかに人為的な匂いがした。

「どうやら間違い‥‥なさそうだな‥‥‥」
ぼくはゆっくりと近づいていった。恐る恐る『壁』に手を伸ばし、ツタの葉をそっと搔き分けてみた。
葉と葉の隙間から垣間見えたのは、古びて黒くくすんだ木の板。予想通りだ。ぼくは掻き分けていた辺りの葉を両手で鷲掴(わしづか)みにして、蔓(つる)ごと勢いよくむしり取った。
ブチブチッ!ブチリ!ガサガサガササァァー ー
頑丈(がんじょう)そうな木の板を張った正真正銘の壁が現れた。巨大迷路の仕切りであり、外壁である。
閉鎖されてから長い年月が経過しているはずだが、全く朽ちた様子は見られなかった。
「イメージ‥通りじゃないか‥‥」ぼくはどこから湧いて出たとも知れない、謎の感慨に浸っていた。

迷路の外壁を含めた仕切り壁の高さは2メートルあまり、まだツタに覆われていて確認はできないが、中央に山の頂(いただき)のごとく突き出ている部分は、展望櫓(やぐら)であろう。
この壁伝いに右に行けば、やはりツタの葉に隠れているだろうが、巨大迷路の入口と出口が隣り合った場所にあるはずだ。そして左に歩いて行って角を回り込めば‥‥‥‥‥

「角を回り込めば‥‥迷路の北側‥‥」林の中の道から見えていた、『赤い花』が咲いていたはずの場所である。

ずっと気になっていたのだ。直ぐに確かめようと思った。
だがここまで来てみて、胸を不吉な予感が満たした。‥否、違うな。最初からだ。赤い花を遠目で見かけた時から、ずっと嫌な予感がしていたのだ。嫌な予感がしていたからこそ、確かめなくてはいけないと思い続けていたのだ。
「さっさと確かめてしまおう。時間がないんだ」自らを鼓舞(こぶ)する様にそう口走り、ぼくは左に向かって歩き出した。壁伝いに行き、角を曲がる時、北側の壁全体がすぐに奥まで見渡せるようにと、大き目に膨らんで回り込むみたいにして曲がった。

ぼくは曲がった。そして‥‥‥‥‥足を止めた。

大きな『赤い花』‥‥が咲いていた。

次回へ続く