悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (177)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十二

ぼくと高木セナが駐車場にいた時に聞こえてきた『風を切る様な音?何かが軋みを上げる音?』は恐らく、葉子先生の容態(ようだい)の変化に気がついたみんなが思わず漏らした『悲痛の叫び声』だったのだろう‥‥‥‥

草の上‥‥、いくつもの切り傷からの出血で赤く染まった背中をかばって、両腕を枕に顔を埋(うず)めて俯(うつぶ)せに横たわっている葉子先生の姿を、しばらくただ黙って眺めていたぼくは、「もう‥‥このままでいい‥‥‥」と思った。
実践したことはない知識だけのものだったが、心肺蘇生などの救命処置を施すこともできたかも知れない。しかしあくまでそれは、救急救命士の到着を前提とした、彼らが来るまでの間に合わせの処置でしかないだろうし、その頼みの救急車は、ここに到着することはないのだ。きっと駐車場に着く前の道路上のどこかで『ヒトデナシ』によって阻止され、救急車だけではなくここに近づこうとした人間は今までもそしてこれからもずっと、全員が全員、殺されていくのだ‥‥‥‥‥

気がつくといつの間にかぼくのすぐ後ろに高木セナも座り込んでいて、振り向いたぼくに、今にも涙がこぼれ落ちそうな悲痛な目を向けた。
「葉子先生は‥‥、眠っている‥だけなんでしょ?」彼女は問うた。
「‥‥‥‥‥‥‥」ぼくは黙ったまま彼女を見つめ、首を小さく横に振った。
その反応を見て高木セナはギュッと目をつぶり、祈る様なかたちに両手を組んでおでこに押しつけてすすり泣き始めた。幾筋もの涙が、後から後から彼女の頬を伝った。

「葉子先生は今まで‥‥、懸命に彼女の役割を果たして来たんだ。このまま‥安らかに寝かせてあげよう‥‥‥」ぼくは高木セナに、そして葉子先生を囲んでいるみんなに、(そしてたぶん自分自身に‥)言い聞かせた。
するとぼくの後方の少し離れた場所から、「ヒカリは‥‥ 大人みたいなことを平気で言うんだな‥」という声が帰って来た。モリオだった。「いつだって大人は、みんなそんなこと言って全部済まそうとするんだ‥‥」
「違う!違うよ、モリオ!済まそうとしているわけじゃない」ぼくは反論した。「大人になったら!大人になったらみんな!どうしようもないことがあって!‥‥‥‥」しかし後の言葉が出て来なかった。失ってしまった『ソラ』への思いが突然、堰(せき)を切ったみたいに頭の中に溢れ出し、白波を立てて駆け巡っていた。
「どうしようもないことがあって‥ 何だよ?」モリオが問い質した。

絶望があって‥‥打ちのめされ、打ちひしがれる。この先をどうやって生きて行ったら良いのか‥‥分からなくなる。本当の絶望は、一つ二つの言葉で済ましてしまえるほど生易(なまやさ)しいものでは決してない。しかしそれでも大人は、そんな現実から逃げられないで、それから先もずっと、どうにかこうにか誤魔化したり取り繕(つくろ)いながらでも、生きて行かなければならないんだ! と、ぼくはモリオに叫んでしまいたかった。
しかし、その衝動を押し留めてくれたものがあった。
すぐ後ろにいた高木セナが、恥ずかしがっていた人目もはばからず、いつの間にかぼくの左手を取って優しく両手で包んでくれていたのだ。

そうか、彼女は‥‥ ぼくと『あの絶望』を共有した 唯一の人間なのだと‥‥‥ 改めて思った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (176)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十一

「こんな遠足‥‥ 来なければよかった‥‥‥‥‥」

持ち前の感性で物事の本質を的確に捉え、いつも冷静に行動していたはずのツジウラ ソノ‥‥‥
そんな彼女にして、たったそれだけの呟きだったが‥‥、ぼくには『ひどく取り乱した感情的なもの』に響き、今までの彼女とは別人の口から出た言葉のように聞こえてしまった。
高木セナもやはりそう感じたのだろうと思う。「‥え??」と一言漏らしたきり、驚いた表情をしたまま押し黙ってしまった。

「やっぱり何かあったんだな!何があった?!」ぼくはツジウラ ソノに問い質した。
ツジウラ ソノは、込み上げてくる悲しみをまるで歯を食いしばって押し殺しているみたいに口を真一文字に閉じたまま、黙って片手だけを上げ、その手で雑木林の方を指差して見せた。モリオや他のみんなが身を潜めているはずの、大きなクヌギの木のある辺りだ。
「くそっ やっぱり!」嫌な予感が的中しそうなことへの苛立ちの言葉を吐き捨てて、ぼくは彼女が指し示す雑木林に向かって走り出した。高木セナも当然少し遅れて続く。
ツジウラ ソノは、ぼくらの後からついて来ることはなかった。ぼくは林の中に飛び込む寸前に、一瞬振り向いて彼女の方に目を向けたが、彼女はこちらに背を向けたまま、ただそのままの姿勢で、じっと立ち続けていた。

ザザササー ー ザザザー
雑木林の中、ぼくと高木セナが草を踏み散らかして近づく音に反応してこちらを見たのは、力なく地べたに座り込んでいたモリオだけだった。
「モリオ! いったい何があった!?みんな無事なのか??」
「‥‥よっ 葉子先生が‥‥‥」モリオは涙声で答えた。「息をしてない‥みたいなんだ」
「いや!」両手で口を覆い、高木セナが短い悲鳴の様な声を上げた。

葉子先生は‥‥、ぼくがここを離れる前と全く同じ体勢で、草の上に俯(うつぶ)せに横たわっていた。軽く組んだ両腕を枕にして頭をのせ、顔を下に向けているため、その表情を窺い知ることはできない。
先生の身体の両側にはそれぞれ、ミドリとフタハのふたりがすがる様に取り付いて、俯いたまま両肩を揺らしていた。彼女たちは懸命に声を押し殺しながら、嗚咽していた。
先生の足元には、応急手当をした右足を無造作に投げ出してタスクが座っていた。タスクは、「起きて‥葉子先生‥起きて‥ お願い‥葉子先生‥起きて‥」と、涙をぼろぼろ流しながら、消え入りそうな声で、まるで呪文の様にひたすら繰り返していた。
ぼくは、ミドリの左隣の草の上、先生の上半身の前に両膝をついた。
「息をしていないのは‥‥確かなのか?」ぼくは小声で、傍らのミドリに聞いた。
ミドリは、答えなかった。代わりに、先生の体を挟んだ向こう側に取り付いていたフタハが、泣き腫らした目をこちらに向けて、両目でゆっくりと瞬(まばた)きをして見せた。

「そうか‥‥‥」ぼくはそう言って、血で真っ赤に染まり(いや、ほとんどの部分がどす黒く乾き始めている)無残に切り刻まれた葉子先生のパーカーの背中を、しばらく見つめていた。
やがて諦めきれず、脈だけでも取ってみようと思った。両手首は顔の下だったので、パーカーのフードを少し除けて、首筋にある頸動脈(けいどうみゃく)に手を伸ばそうとした。
「‥‥‥‥‥‥‥」

葉子先生の首筋に十数匹の蟻が列を作って動いているのを見た時‥‥、ぼくは伸ばそうとした手をゆっくりと引っ込めて‥元に戻した‥‥‥‥。

次回へ続く