悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (147)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十二

「ヒカリ‥くん?」
ぼくを呼ぶ声がした。

「ヒカリくん」
声は、クヌギの木に浮かんだ首の一つから発せられていた。
「怖い人は‥‥もういない?」別の首が問うた。

ぼくは呆気(あっけ)に取られて、その首たちを見つめ直した。

三つの首のうちの一つが、スッと、茂った木の葉の中に吸い込まれて消えた。
ガサガサッと音がして、太目の枝と幹に器用に手足を掛けながら、一人の女子がクヌギの木から降りて来た。
ツジウラ ソノだった。
ぼくは「ああ‥」と思わず呻(うめ)き声を上げ、安堵のため息をついていた。

ツジウラ ソノに続いて残りの首の二人が、すとん‥すとんと木から飛び降りて、地面に降り立った。フタハとミドリだった。
「みんな、無事だったのか!」ぼくは三人に声をかけた。
「無事なもんか‥」不満そうな男子の声が聞こえて、首を出さずに隠れていたであろう四人目が、慎重に幹にしがみつきながら降りて来た。モリオだった。
「モリオもいたか!」ぼくは嬉しくなって、モリオの方に歩み寄って行った。
「‥‥‥‥‥」やっとこさ地面に両足をつけたモリオだったが、近づいて行くぼくに目もくれず、そのまま黙って木の上を見上げていた。まだ、他にも誰か木の上にいる様だ。
モリオが、『手を差し伸べる』といった感じで両手を上方に伸ばした。するとモリオの見上げている辺りの枝葉の陰からゆっくりとズックを履いた大人の足が現れ、不器用そうに幹に足を掛けた。ツジウラ ソノやフタハとミドリもモリオの傍らに駆け寄り、降りて来ようとしている人物の体を支えるべく、みんな一緒に手を伸ばした。
木の幹伝いに下半身が現れ、徐々に上半身が見えてきて‥‥頭が現れた。みんなの助けを得て何とか地面に降り立つ事ができたのは、葉子先生その人だった。
葉子先生の生存を知った瞬間だったが、彼女の全身を目にしてぼくは息を吞んだ。葉子先生の身に着けていたパーカーとズボンは、間違いなく彼女自身の血で、真っ赤に染まっていたのだ。

「ヒカリ‥‥くん‥」葉子先生はすぐ傍まで来たぼくを見て、安心した様に微笑んだ。
しかし次の瞬間、いきなり力が抜けたみたいに頽(くずお)れた。
「先生!」「葉子先生!」「大丈夫?葉子先生!」全員が慌てて彼女の体を支え直した。ぼくも素早く両手を差し出してそこに加わった。
「楽にする‥わ‥‥」葉子先生はそう言って、ぼくたちの補助を辞退し、クヌギの木の根元の叢(くさむら)にうつ伏せに横たわった。うつ伏せになってこちらを向けた彼女の背中には、服の上から切りつけられた幾つもの傷があって、今も新鮮な血を染み出させていた。
「何とか、血だけでも止めなきゃ!」フタハが泣きそうな声で言った。
ツジウラ ソノとミドリは、葉子先生からウエストポーチを拝借し、止血に必要なものを探し始めた。
しかし葉子先生の負っている傷は、簡単な応急処置で今を凌(しの)げる様なレベルのものでない事は明らかだった。

「い‥いったい、何があった?」ぼくは誰とは無しに問い質していた。「他のみんなはどこに行った?」
誰も答えなかった。モリオは途方に暮れた様子で座り込んでしまった。

「‥ヒト‥デナシ‥が‥‥‥出たのよ」
随分と間があって、答えらしき言葉が返って来た。その弱々しい声の主は、葉子先生だった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (146)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十一

静寂‥‥‥‥
不気味なほどの静寂が‥‥‥駐車場を支配していた。
そこに唯一(ゆいいつ)‥‥、荒々しく矢継ぎ早な呼吸音だけが、近く遠く響いている。

「ゴクリ‥」と生唾(なまつば)を飲み込んで、ぼくは我に返った。
駐車場までの全力疾走で完全に息が上がり、懸命に整えようとして自分自身が発していた自分自身の呼吸音だった。それがまるで他人事みたいに、デフォルメされて耳の中に届いていたのだ。

先生達の目を盗んで駐車場を出た時の景色そのままに、水崎先生の車がポツンと一台止まってはいるが、一切の人影は消えている。それは、駐車場から先に広がる芝生広場も同じで、人影どころか僅かな人の気配すら皆無だった。
「‥‥いったい‥、何があった?」ぼくは茫然(ぼうぜん)としながら、芝生広場に足を踏み入れていった。

誰かいないのか!などと叫び出したい衝動に駆られたが、それはあまりにも不適切に思えた。
唯々(ただただ)黙々と、広場を歩き回った。そして漸(ようや)く、芝生の上に無造作に放り出されたリュックを一つ見つけた。誰のものかは分からない‥‥‥‥‥「ん?」
今見つけたリュックの少し先に、もう一つリュックが転がっているではないか。ぼくは、他にまだありはしないかと、もっと先の方へ視線を向けた。

「うっ!」

思わず息を吞み込む。それが切っ掛けだった。
視線を百メートルほど先にある林、樹木が立ち並んでいる芝生広場の境界辺りまで向けた時、ずっと目の前に下がっていた帳(とばり)が俄(にわ)かに消え失せていくみたいに、いきなり何もかもが見え始めた。
血。真っ赤な血。飛び散った血。どす黒く染み入った血が、芝生のあちらこちらを斑(まだら)のごとく染め上げていた。
リュックももっと落ちている。帽子や水筒も落ちている。片方だけのズック靴。トレカ。そして、真っ二つに折れた虫捕り網‥‥‥‥‥‥
ぼくは一つ一つ、それらを確認する様に進んだ。ここで起きた事態を想像しながら。

見覚えのある大きいリュックがあった。風太郎先生が背負っていたアウトドアメーカーのロゴマークが入ったバックパックだ。明らかに血で汚れていて、その血が風太郎先生自身のものであることは、周囲を観察してだんだんに分かっていった。
血に混じって肉片が落ちていて‥‥、右の腕と左の手‥が落ちていた。次に見つけたのは、ちぎれかけた二本の足がおまけみたいについた下半身で、その次にあったのは切り刻まれた上半身らしきものだった。やはり見覚えのあるチェックのシャツが絡みつくみたいにくっついていて、首がなくても風太郎先生だと知れた。結局、身元確認の決め手となる首は、十メートル先で見つかった。意外なほど穏やかな表情をしていた。
「巨大迷路の外壁にいっぺんに二つ吊るされた死体は‥‥、風太郎先生ではなかったわけか‥‥‥‥‥」混乱して麻痺(まひ)しかけた頭の中の整理をつけるつもりで、ぼくは言った。口にした言葉に、それ以上の意味も、それ以外の意味もなかった。

次から次へと目に飛び込んできた光景に、拒絶反応が出たのかも知れない。だんだん体に力が入らなくなってきて、そこからはまるで彷徨(さまよ)う様に歩いた。
気がつけばいつの間にか、林のすぐ手前まで来ていた。芝生広場の西側の端(境界)で、ぼくたちはケヤキ並木で始まる林の中の道を抜けて、芝生広場までやって来た。この辺りになるとケヤキは姿を消し、マツやクヌギの木が多く立ち並んで雑木林をつくっていた。
ぼくは見るとは無しに、一番近くの立派な枝ぶりのクヌギの木を見上げた。

「‥‥‥‥‥‥え?」

クヌギの賑やかに茂った葉と葉の隙間に、‥ひとつ‥ふたつ‥みっつ‥‥の子供の首が現れ、ぼくを見ていた。

次回へ続く