悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (149)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十四

ツジウラ ソノが『感じたまま』だと言った『ヒトデナシ』のイメージは、突拍子(とっぴょうし)もなく非現実的で、分かり易いのか分かり難いのかも判らなかった。
だがぼくは、そんな彼女の感性から目を背けようとは思わなかった。
それはたぶん、水崎先生の携帯電話を茂みの中で一緒に探した時、彼女の的確なアドバイスに関心させられた経験があったからだろうし、彼女のことばに耳を傾けているとなぜかしら『幼いソラ』とたわいもない会話を交わしていた過去のひと時が思い出されてならなかったから、かも知れない‥‥‥‥‥


「何かで素性を隠そうと、していたのかな?例えば、すっぽりと全身を覆う黒っぽいものを被(かぶ)っていたとか?」ぼくは質問した。
「そういうのでは絶対に‥なかったと思う」ツジウラ ソノは遠くを見るみたいに目を細め、口を固く結んでしまった。

「もしかしたら、人間ではないのかも知れない‥わね。だから『ヒトデナシ』と呼ばれていたのかも知れない‥‥」突然、囁(ささや)く様な弱々しい声が聞こえて来た。声の主は、目を閉じて草の上にうつ伏せに横たわっている葉子先生だった。当然さっきからのぼくたちの会話を聞いていたのだ。
「人間‥ではないから、『人で無し』ですか。本当にそのまんま、文字通りだ」ぼくは葉子先生の方に身を乗り出す、そしてずっと思っていた事を皮肉交じりに聞いてみた。「でも、教頭先生がそいつに襲われた時『ヒトデナシだ。ヒトデナシが出た』て叫んだのって、その場にそぐわない奇妙な反応だと思いませんか?」

「‥‥‥そうね」葉子先生は目を閉じたまま、静かに言った。「教頭先生はきっと、小さい頃からずっと『ヒトデナシ』を恐れていたのよ」

「小さいころから?」「それって、どういうことですか?」葉子先生の傍らにいたフタハとミドリが、ぼくの代わりに質問してくれた。

背中の傷の痛みを堪(こら)えていたのか、間を置く様な少しの沈黙の後、「今度の遠足がこのハルサキ山に決まった時、教頭先生が聞かせて下さったお話なんだけど‥‥」そう前置きして、葉子先生は語り始めた。
「教頭先生が幼かった頃だから‥‥随分と昔ね。近隣のお年寄りたちはみんながみんな、ここを別の名で呼んでいたと言うの」
「別の名?」ぼくたち全員が声を揃えた。
「そう‥、ハラサキ山。腹を裂くと書いて『腹裂き山』て‥‥」
「なっ、何だそれ!」モリオが、顔をしかめて言った。しかし、モリオよりももっと顔をしかめ、驚いた顔をしていたのはこのぼくだった。
ぼくは、芝生広場に戻る前に巨大迷路の廃墟で目撃してしまったあの光景を、細部まで鮮明に思い返していたのだ。ここにいるみんなにはまだ報告していない、見事に腹を切り裂かれ、まるで赤いバラの花弁の様に内臓をはみ出させて外壁(そとかべ)に逆さまに吊るされていた水崎先生と、そして教頭先生本人の変わり果てた姿を‥‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (148)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十三

「ひと‥でなし?‥‥‥」

ぼくは今聞こえて来た言葉を聞こえたままに繰り返し、葉子先生を見た。
聞き間違いではない。葉子先生は確かに『人で無し』、『人で無しが出た』と言ったのだ。

「そう、ヒトデナシ‥」葉子先生の傍らにいたツジウラ ソノがその言葉を引き継ぐみたいにまた繰り返した。そしてひとり言の様に続けた。「教頭先生が襲われた時、そう叫んでた。ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!って叫び続けてた‥‥‥」
「教頭先生が?」ぼくは、今度はツジウラ ソノを見た。「教頭先生が本当に、そう叫んだのか?」
「そう、私も聞いた」「うん‥‥」やはり葉子先生の傍らにいて、彼女の手当を懸命(けんめい)に試みているフタハとミドリが言った。

ぼくは首を傾(かし)げた。教頭先生が本当にそう叫んでいたとしたら、ひどく滑稽(こっけい)な言葉だと思ったからだ。『人で無しが出た』なんて、突然何者かに襲われた人間が、はたして叫ぶだろうか?あまりにも陳腐(ちんぷ)で、その場に似つかわしくない表現ではあるまいか‥‥‥‥

「もっと詳しく、その時のことを聞かせてくれないか?」ぼくはそこにいる全員に言った。結局のところ、いったい何があったのか知りたかったのだ。

「たぶんあの時、教頭先生の一番近くにいたのは、私だったと思う」話し出したのはツジウラ ソノだった。
「私とモリオくんは、駐車場と芝生広場の境目の石の上に座ってて、水崎先生の車の傍で話し合っている教頭先生と葉子先生を見てた。しばらくして、教頭先生だけがご自分の携帯電話を構えてトイレの脇の方まで歩いて行って、隠れるようにして話し出したの。たぶん広場にいるみんなに聞かれたくなかったんだと思う。色んなところと連絡を取っている感じだったから。そうしたら‥いきなり、知らない人が駐車場の真ん中に立っていたのよ‥‥‥」
「いき‥なり?」妙な言い回しだと思って、ぼくは口を挟んだ。
「そう、いきなり。突然どこからか湧いて出て来たみたいに‥‥いつの間にか立ってたの。その‥知らない人が教頭先生に近づいて行って‥‥、教頭先生がその人に気づいて振り向いたと思ったら‥‥‥、教頭先生の携帯電話が宙に舞ってどこかに飛んでった‥‥」
「そこで教頭先生は、ものすごい悲鳴を上げたんだ。うわあああああ‥て」いつの間にかぼくの後ろにモリオが立っていて、いきなり話に加わった。ぼくは飛び上がって驚いてしまった。そんなぼくの肩に手を置き、モリオは続けた。
「みんなが教頭先生の方を見た。教頭先生は尻もちをついたみたいに駐車場の脇に座り込んでいて、怯えた顔でそいつを見上げてた‥‥。その時だよ、『ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!』て教頭先生が叫んだのは」
「‥‥‥‥‥‥」ぼくはやっぱり首を傾げた。普通に使われている表現と違って、教頭先生が叫んだ『ヒトデナシ』はまるで、そんな名前のついた『化けもの』か『妖怪』がいて、そんな特別な存在を呼んでいる時の感覚に似ている‥‥‥‥‥‥

「それで‥‥その『ヒトデナシ』は、どんなヤツだったんだ?」ぼくは少しだけ冗談めかして、モリオに質問した。
「‥‥‥‥それが‥変なんだ。よく分からない‥んだ」返って来たのは歯切れの悪い言葉だった。
見るとミドリもフタハと顔を見合わせ、頻(しき)りに首をひねっている。ツジウラ ソノも言葉を探しているのか、黙り込んでいた。
「みんな、どうしたんだ?覚えてないのかよ‥‥‥‥‥」

沈黙がしばらく続いた後、ツジウラ ソノが口を開いた。
「体がすごく大きい‥‥おとなの男の人だった。でも、どんな顔してるとか、どんな服着てるとか、細かいところを見ようとすると、暗い陰の中をのぞいてるみたいになって‥‥何もかもが境目をなくしたみたいにはっきりしないの。私の感じたイメージを‥‥感じたまま‥‥正直に言ったなら、例えば‥‥」
「例えば?」ぼくは思わず相槌(あいづち)を打ってしまった。
「例えば‥‥パレットに黒い絵の具を多めに出して、その後、茶色と緑の絵の具を出して‥‥そう、青も少し加えて、ぐるぐるっと荒っぽく筆でかき回して‥‥でも、まだまだ混ざりきってなくて‥‥。そんな、ただの黒ではない色をした『人の形(かたち)をしたもの』を見ているみたいな‥‥、感じかなあ‥‥‥‥‥‥」

次回へ続く