悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (153)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十八

背中に走る激痛をこらえ、渾身の力で投じられた葉子先生の携帯電話は、高木セナの手を引いて逃げていた草口ミワの数歩前の芝生の上にバサッと鈍い音を立てて落ちて転がった。草口ミワは一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、先生の意思をしっかりと受け取る様に、塞(ふさ)がっていなかった右手でそれを拾い上げた。

「私が携帯電話を手放した途端、背中を切りつけていた『ヒトデナシ』の手が止まったのを感じた」と葉子先生は回想する。明らかに『ヒトデナシ』は、携帯電話の行方を見ていたのよ‥‥」

草口ミワは逃げる足を止めることはなかったが、高木セナを引いていた手を離し、両手で携帯電話を操作し始めた。葉子先生はその様子を確認している。しかし、背後に立っていた『ヒトデナシ』も同じく、草口ミワのそんな一挙手一投足をしっかりと観察していたのは間違いない。
次の瞬間『ヒトデナシ』が動いた。逃げ遅れた子を庇(かば)って地べたにうずくまっていた葉子先生の横を掠(かす)めて、『ヒトデナシ』の足が彼女の前方へと踏み出していったのだ。
「しまった!」この時になって葉子先生は悟った。そして後悔した。「苦し紛れに自分が携帯電話を託したせいで、今度は草口さんたちが『標的』となってしまったのだ」と。

果たして‥成り行きはその通りになった。
葉子先生の目の前に出ていた『ヒトデナシ』の両足の輪郭が一瞬ぼやけた様に揺らいだかと思うと、まるで一陣の風が吹き去る凄(すさ)まじさで、草口ミワと高木セナ目掛けて遠ざかって行った。
葉子先生は目を見張った。そして彼女は叫んだ。「逃げて!二人とも逃げてぇぇ!」
その叫び声に草口ミワは足を止める。すでに通話中だったのだろうか、何ごとかを懸命に伝えようとしていた口の動きが止まり、携帯電話から顔を上げた。
「逃げて!逃げて!携帯電話を捨てて!今すぐ捨てなさい!」葉子先生は声を限りに叫ぶ。
しかし、時すでに遅く、禍々(まがまが)しき陰のごとき『ヒトデナシ』の輪郭が、草口ミワのすぐ前まで到達していた。草口ミワの表情が恐怖で凍りつのが分かった。追随(ついずい)していた高木セナがその場に座り込んでしまうのが見えた。
葉子先生はこの時、自分の軽率な行動を後悔するどころか、呪ったそうだ。

「まさにその時だった。私の背後から、芝草を蹴散らしながら誰かが駆けて来たの」葉子先生は小さい声ながらも、幾分興奮気味に続けた。「風太郎先生だったのよ」

取り押さえようと組みついていた『ヒトデナシ』に一旦(いったん)は振り飛ばされ、駐車場のアスファルトに体を強(したた)か打ちつけた風太郎先生だったが、身を立て直して全速力で駆けて来たのだ。
恐怖のあまり、携帯電話を手にしたまま硬直して動けなくなった草口ミワと、座り込んでしまっている高木セナの頭上に、『ヒトデナシ』が刃物(のようなもの)をかざした瞬間だった。風太郎先生は3メートル以上手前からジャンプして、『ヒトデナシ』の背後にしがみついた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (152)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十七

教頭先生が『ヒトデナシ』と呼んだ謎の犯人について、みんなが口を揃えて言ったことがある。
それは『突然目の前に現れたかと思ったら、いつの間にか煙の様に消えていて、すごく離れた場所にまた突然現れる』と言う内容で、モリオは、「きっとあいつは忍者か、そうでなかったらエスパーかも知れないな。何人もいるみたいに見せかけたり(分身の術)してるか、考えただけで違う場所に行ける(テレポーテーション・瞬間移動)んだ!」と力説した。


生徒たちは駐車場に背を向けてんでんばらばらに逃げ出したみたいだったが、ほとんどの者は芝生広場の北西方向の端、木が立ち並ぶ林へと走り出していた。そこに行けば樹々の中に身を隠せるし、ここへ来た時に利用した林の中の道を逆に辿れば、犯人が追いかけて来た場合でも逃げ果(おお)せると咄嗟(とっさ)に考えたのかも知れない。
一方、逆に駐車場に向かった風太郎先生は、教頭先生への凶行を阻止しようと犯人に食らいつき、葉子先生はと言うと、転んだり座り込んでしまって逃げ遅れている子たちを守ろうと、懸命に走り回っていたらしい。慌てて逃げながらもツジウラ ソノは何度も振り向いて、そんな二人の様子を確認していた。そして彼女は、更なる事態の変化をこう証言する。「でも急に、犯人の『ヒトデナシ』が、風太郎先生を投げ飛ばすみたいに振り切って、倒れている教頭先生もほったらかしにして、少し離れたところにいた葉子先生の方へ歩き出したの。私、今度は葉子先生が襲われると思って、『先生、逃げて!』て叫んでた‥」

「覚えて‥るわ‥‥」
この時、力のない大人の声が、ぼくたちの会話に突然割って入った。葉子先生だった。しばらくの間目を瞑って眠る様に静かにしていた葉子先生が会話の全てをちゃんと聞いていて、ふたたび語り出したのだ。
「私‥、まだ駐車場近くにいた子たちを遠くへ逃がそうとしながら‥、携帯電話を出したの。110番と119番に‥‥通報しようとしたのよ‥」
「また、携帯電話か‥‥」ぼくは思わず口走ってしまった。
「え?何のことだよ?」モリオがぼくを見た。
「だぶん‥そうね‥」モリオの質問に答えてくれたのは葉子先生だった。「犯人‥の『ヒトデナシ』は、きっと携帯電話を操作していた私に気がついて‥‥私の方に向かって来たのね」
「ぼくもそう思います」ぼくは頷いた。

その時その後の葉子先生は、まるで風の様な速さで近づいて来た『ヒトデナシ』に、幾度も切りつけられることになる。子供たちを庇(かば)おうとして相手に背を向けていたため、その傷は背中に集中した。
もしこのままずっと葉子先生が携帯電話を手に持っていたなら、『ヒトデナシ』によって致命傷を負わされたか、少なくとも水崎先生みたいに指を切り落とされていただろう。
葉子先生は背中に手酷いダメージを受けながらも、怯える子供たちの盾となり続けていた刹那(せつな)、十数メートル先の芝生の上を高木セナの手を引いて駆けて行く草口ミワの大人びた姿を目にする。おそらくぐずぐずして逃げ遅れていた高木セナを探し出し、こんな状況下でもいつも通り彼女を見捨てることなく懸命に世話を焼いていたのだ。
「お願い草口さん!これで警察と救急に連絡してちょうだい!」全くの咄嗟(とっさ)の行動である。葉子先生は泣きそうな顔で必死に走り去ろうとしている草口ミワに向かって、自分の携帯電話を放り投げたのだ。
葉子先生はまだこの時点では『この行動』が、草口ミワと高木セナの二人を危険に晒(さら)すことに繋(つな)がるとは、夢にも思っていなかっただろう‥‥‥‥

次回へ続く